鬼神も感動する ― 2006/12/06 00:51
12月5日
どうも首が痛くて何となく体調が良くない。寒さも絡んでいるのだろうが、かといって、休むほどでもない。こういうのが一番困る。今日は会議日だから簡単には休むわけにはいかないのだ。
それでも、『中国の鬼』(徐華竜著)という本を百頁ほど読む。今年の春に行った彝族の火祭調査報告をそろそろ書き始めないといけないので、参考文献をいろいろと読み始めている。「古今集」仮名序に「目に見えぬ鬼神もあはれと思ほせ」とあるが、この鬼神という呼び方は中国の鬼神から来ている。中国では死者が鬼神となる。この場合、神と鬼の区別がない。徐華竜は、もともと鬼が最も古い観念で、それが悪鬼と善鬼に分かれ、善鬼が神と呼ばれ、悪鬼が鬼とよばれるようになり、両者が相対立存在になっていったのだと述べている。そんなにうまく整理できるかどうか怪しいのだが、大筋ではそんなところかもしれない。
古今集仮名序の「目に見えぬ鬼神」は近代的な解釈がはいっているだろう。風土記に出てくる鬼は形があるし、中国の鬼も動物のような形だという。それ自体は目に見えないものではない。ただ、簡単には見えないものとしてあるのは確かだ。その動きは素早いはずだし、何よりも見えたらこっちがやられてしまうのだ。それよりも、「鬼神」が和歌を聞いて「あはれ」に思うというのが面白い。
中国の小説には、鬼が人間に化けて人間の異性と情を交わすという話がたくさんある。鬼も情のある人間になるのである。そのような小説にヒントを得て書かれたのが、上田秋成の『雨月物語』の「蛇性の淫」である。ただ、ここでは鬼は極めてエロス的な蛇(女性)として現れる。
中国の人間と情を交わす鬼の物語は、和歌に感動する鬼ではない。やはり日本では中国の鬼神も叙情を解する神として解釈し直されるのだ。日本の叙情の力は強いというところか。
今日とても疲れているのは、首のせいだけでもない。昨夜チビが寝床に潜り込んできたのでよく眠れなかったのだ。まったく猫みたいな犬である。それでいて、近寄るとさっと身をかわすのだ。今日はチビは自分の寝床で丸くなって寝ている。よかった。
鬼も寝てゐるぼうぼうと枯れ葎
手間かけて冬芽を守るや親の愛
12月4日
どうもまた頸椎症が出てきて、気分が悪い。少し本の読み過ぎかもしれない。かといってそんなに読んでいるわけではないんだが。姿勢がよくないのだなあ。
読みかけの本があっちこっちにある。電車で読む本、トイレで読む本。仕事場で読む本。どうも集中して読むということがない。ただ、仕事柄どうしても読まなきゃいけない資料などは集中して読むが。たぶん、本を読むのがあんまり好きじゃないのだと思う。それじゃ困るから、あっちこっちに本を置いておいて、読まなきゃいけないというようにしているわけだ。
ただ、書評などを読むと読みたいとつい思ってしまう。ほんとは読むのが好きじゃないくせに、とは思うがそこが矛盾しているところだ。好奇心と怠惰な性格と、頸椎症と、本を読まなきゃいけない仕事と、私は、困った状態にある。
定年退職した研究者が毎日むさぼるように本を読んでいるという話を聞いた。そんなことしたら私は首が上がらなくなってすぐに死ぬな…。寺山修司は書を捨てて街に出でよとか言ったが、あれは若者向けで、歳を喰った私向けの言葉ではない。
最近の学生は確かに本を読まなくなった。ただ、本を読む代わりに、それなりの知識や教養は、いろんなメディア媒体を通して一応知ってはいる。この厳しい社会を生きていくのにそれで差し障りがないのだったらそれでいいのかなとも思うが、経験から言うと、やっぱり本を読んでいる人と読んでいない人とは差が出る(読んでる本にもよるが)。
寺山修司の言葉は若者は本なんか読んでいないで世の中を変えくらいの行動をしろ!というアジテーションで、簡単に信用してはいけない。寺山修司はちゃんとたくさん本を読んでいるのだから。
教養を身につけるのはいいことだという一般論ではなく、たくさんの情報と、創造する力と、考える力を少しでも身につけておかないと、これからの世の中けっこうきついよ、というくらいの意味だ。
実は、私は商業高校出身で、大学だって夜間だし、たいした学歴ではないが、何とか本を読む量の多さだけで、今の職業につけたと思っている。本が身を助ける場合もあるということだが、それなのに、どうして私は本を読むのが好きではないと自分で思うのか。よくわからないが、これも一つの人生の見え方なのかもしれない。とすればそれは寂しい見え方のような気もする…。
短日や読みたき本は見つからず
どうも首が痛くて何となく体調が良くない。寒さも絡んでいるのだろうが、かといって、休むほどでもない。こういうのが一番困る。今日は会議日だから簡単には休むわけにはいかないのだ。
それでも、『中国の鬼』(徐華竜著)という本を百頁ほど読む。今年の春に行った彝族の火祭調査報告をそろそろ書き始めないといけないので、参考文献をいろいろと読み始めている。「古今集」仮名序に「目に見えぬ鬼神もあはれと思ほせ」とあるが、この鬼神という呼び方は中国の鬼神から来ている。中国では死者が鬼神となる。この場合、神と鬼の区別がない。徐華竜は、もともと鬼が最も古い観念で、それが悪鬼と善鬼に分かれ、善鬼が神と呼ばれ、悪鬼が鬼とよばれるようになり、両者が相対立存在になっていったのだと述べている。そんなにうまく整理できるかどうか怪しいのだが、大筋ではそんなところかもしれない。
古今集仮名序の「目に見えぬ鬼神」は近代的な解釈がはいっているだろう。風土記に出てくる鬼は形があるし、中国の鬼も動物のような形だという。それ自体は目に見えないものではない。ただ、簡単には見えないものとしてあるのは確かだ。その動きは素早いはずだし、何よりも見えたらこっちがやられてしまうのだ。それよりも、「鬼神」が和歌を聞いて「あはれ」に思うというのが面白い。
中国の小説には、鬼が人間に化けて人間の異性と情を交わすという話がたくさんある。鬼も情のある人間になるのである。そのような小説にヒントを得て書かれたのが、上田秋成の『雨月物語』の「蛇性の淫」である。ただ、ここでは鬼は極めてエロス的な蛇(女性)として現れる。
中国の人間と情を交わす鬼の物語は、和歌に感動する鬼ではない。やはり日本では中国の鬼神も叙情を解する神として解釈し直されるのだ。日本の叙情の力は強いというところか。
今日とても疲れているのは、首のせいだけでもない。昨夜チビが寝床に潜り込んできたのでよく眠れなかったのだ。まったく猫みたいな犬である。それでいて、近寄るとさっと身をかわすのだ。今日はチビは自分の寝床で丸くなって寝ている。よかった。
鬼も寝てゐるぼうぼうと枯れ葎
手間かけて冬芽を守るや親の愛
12月4日
どうもまた頸椎症が出てきて、気分が悪い。少し本の読み過ぎかもしれない。かといってそんなに読んでいるわけではないんだが。姿勢がよくないのだなあ。
読みかけの本があっちこっちにある。電車で読む本、トイレで読む本。仕事場で読む本。どうも集中して読むということがない。ただ、仕事柄どうしても読まなきゃいけない資料などは集中して読むが。たぶん、本を読むのがあんまり好きじゃないのだと思う。それじゃ困るから、あっちこっちに本を置いておいて、読まなきゃいけないというようにしているわけだ。
ただ、書評などを読むと読みたいとつい思ってしまう。ほんとは読むのが好きじゃないくせに、とは思うがそこが矛盾しているところだ。好奇心と怠惰な性格と、頸椎症と、本を読まなきゃいけない仕事と、私は、困った状態にある。
定年退職した研究者が毎日むさぼるように本を読んでいるという話を聞いた。そんなことしたら私は首が上がらなくなってすぐに死ぬな…。寺山修司は書を捨てて街に出でよとか言ったが、あれは若者向けで、歳を喰った私向けの言葉ではない。
最近の学生は確かに本を読まなくなった。ただ、本を読む代わりに、それなりの知識や教養は、いろんなメディア媒体を通して一応知ってはいる。この厳しい社会を生きていくのにそれで差し障りがないのだったらそれでいいのかなとも思うが、経験から言うと、やっぱり本を読んでいる人と読んでいない人とは差が出る(読んでる本にもよるが)。
寺山修司の言葉は若者は本なんか読んでいないで世の中を変えくらいの行動をしろ!というアジテーションで、簡単に信用してはいけない。寺山修司はちゃんとたくさん本を読んでいるのだから。
教養を身につけるのはいいことだという一般論ではなく、たくさんの情報と、創造する力と、考える力を少しでも身につけておかないと、これからの世の中けっこうきついよ、というくらいの意味だ。
実は、私は商業高校出身で、大学だって夜間だし、たいした学歴ではないが、何とか本を読む量の多さだけで、今の職業につけたと思っている。本が身を助ける場合もあるということだが、それなのに、どうして私は本を読むのが好きではないと自分で思うのか。よくわからないが、これも一つの人生の見え方なのかもしれない。とすればそれは寂しい見え方のような気もする…。
短日や読みたき本は見つからず
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