八世紀と変わらん2006/11/28 00:51

 昼に出勤。午前中は医者に行き、通風と血圧の薬をもらう。こうやって3ヶ月に一度は医者に行き薬をもらう。今年は痛風の薬を飲まずにいてひどい目にあったから、真面目に医者に行っている。ついでにインフルエンザの注射をしてもらった。看護婦は予約がないとだめなんですけどと言っていたけど、医者がいいといったからいいじゃないかと頼み込んで打ってもらった。今日は過激な運動はしてはいけないと言われた。過激な運動なんてしたくたってとうからできやしない。

 午後は雑務と授業の準備。午後6時から教養教育の会議。8時に終わり、夕食抜きだったので、帰りが一緒のいつものメンバーと三人で食事をする。後の二人は東武東上線で私より遠いところに住んでいる。私は川越だが、彼等はその先の坂戸まで行く。川越でも疲れるのに彼等はよく通っている。偉い!帰ったのが11時。

 わが大学では来年から教養教育を一本化する。四大も短大も一緒に行う。いわゆるくさび形の教養カリキュラムというやつで、独自の教育目的と体系を持つ。入学者全員が必修の科目もいくつかあり、この教養教育を通して大学の特色ある教育をアピールしようというわけだ。このカリキュラムの原案を作ったのは実は私で、こういう計画を作らせると私はそれなりの能力を発揮する。当然そのために仕事が増えるのだが…

 今日は一日時雨れていた。電車の中で万葉集(巻六)を読んでいて目についた一首。

  白珠は人に知らえず知らずともよし 知らずともわれし知れらば知らずともよし

 元興寺の僧が、才能はあるのに世間はそれを認めず侮っているのでこの歌を作って自身の才能を嘆いたと左注にある。誰も自分の才能を認めてくれなくてもいいんだ、自分が認めているからいいんだ、という歌である。身につまされる歌である。八世紀にこういうことに悶々としている人間がいたということを知るだけで面白い。

    時雨ても時雨れても吾を抱きしむ

シミュレーション2006/11/28 23:48

 今日はいつもの会議日である。窓の外の時雨れる東京の空を見つめながら、人の話を聞いていた。経営に関する会議となると、シミュレーションというやつがいろいろ出てくる。特に、10年後の大学の現状を数字でシミュレーションしたりする。何とか持ちそうだとか危機的だとか、そうやって10年後を予想しながら現在の方針を出していく。

 また10年前にたてたシミュレーションがその通りに推移していったか、報告がある。この場合は、シミュレーションだと現在はもっと危機的なはずだったが、何とかその通りにならずにすんだとか、あるいはひどくなったとか報告がある。私はこういうのは嫌いではない。いろいろとシミュレーションしながら、うまくいったとかいかなかったとか言いながら、いろんな計画を立てて実行していくのは、基本的に、論文を書くのとそう変わらないからだ。

 こういう会議で感心するのは、シミュレーションのプロがいるということで、なるほどこうやって未来を算出するのかとほんとに感心する。ただ、それが論文と違うのは、時に論文は、飛躍するということがあることだろう。あえて実施不可能なシミュレーションを描くのも論文の醍醐味だ。また結論が出ないのも論文のいいところだ。論文を書くような調子で経済のシミュレーションをしていったら会社は破産するに違いない。むろん、誰もが実施可能な着実な論文もある。が、そういうのはたいして面白くない。

 経済のシミュレーションだって、村上ファンドやホリエモンのように飛躍はあるかもしれないが、それは論文よりはかなり危険だ。論文でいくら飛躍したって、人から馬鹿にされるだけで実害はそんなにはない。それで、というわけではないが、私は飛躍に満ちた論文を書きたがる。面白くないとつまらないと思っているからだが、そのせいか人にはあまり顧みられない。ということで、元興寺の僧の万葉の歌はなかなか身につまされる歌だ。 

    こんなもの徒手空拳の冬の空

    シミュレーションの飛躍せぬ時雨かな