富士山が見える2006/11/09 00:52

今日は電車の中で少しは本が読めた。折口信夫の「歌の円寂する時」を読み、それに関連して富岡多恵子「釈超空ノート」の「ノート10」を読む。改めて「歌の円寂する時」を読むと、「抒情」という概念が案外にあやふやであることに気付く。折口は、どうも、性愛を主題するような歌垣の掛け合い歌を前提にしている。それもありだと思うが、それだけではないだろう。万葉の相聞歌はむしろ掛け合いというシチュエーションを失ったところで成立しているはずだ。やはり、抒情という概念は万葉のところで鍛え直される必要がありそうだ。
 富岡多恵子は、短歌の滅亡を説きながらも、骨の髄まで短歌的抒情そのものである釈超空と、短歌を「奴隷の韻律」と批判する詩人小野十三郎とを対比させる、なかなか面白い文章である。小野は短歌に批判的だが、詩の将来は短歌が左右すると述べる。たぶん「抒情」抜きに日本の詩が成立しないことへの言葉だろうか。
 明治以降、多くの者が短歌はそのうち滅びるだろうと語った。近代という時代に合わない詩型だと考えたからだ。それは、折口信夫も小野十三郎も同じであるが、彼等は、短歌がなかなか滅びないことにむしろやや自虐的になって日本の詩の本質を探ろうとした。それが、「歌の円寂する時」であり小野の詩論であると言っていいのだろう。その前提には、短歌的な抒情は近代には合わないという前提が確固としてある。
 が、どうやらそうではない。彼等は近代を誤解したのだ。彼等が思う程以上に近代は近代以前を抱え込んでいる。
 言うなら、古代と近代は見分けがつかぬほどぐじゃぐじゃと液状化している。折口信夫という存在そのものがそうではないか。そのぐじゃぐじゃに「抒情」の巣がある。そう思う。
 富岡多恵子ははっきりと述べてはいないが、どうもそういうことを言いたいらしいと読んだ。

 さてさて、今日は二部の授業があり帰ってきたのは夜の十時半。今日は車でなく電車だ。夜10時から「その時歴史が動いた」で「遠野物語」の成立をやっていて、ビデオに予約を入れておいたが、今日の「遠野物語」ゼミで学生に今日番組を見ろと言うのを忘れてしまった。絶対に言わなくちゃと思っていたのに、最近こういうのが多すぎる。情けない。

 朝、国道16号の向こうに富士山が見えた。冬の到来がこういうことで実感される。

    国道は富士がまします冬来たる
  
    排泄しまたもの喰うて冬来たる