他者を知ることが大事2006/10/20 01:02

 今日は来年度予算の説明会、そして授業。授業では雲南の少数民族文化を紹介している。「地域文化論」という授業だが、なかなか難しい授業だ。異文化を教えるということの意味が、実は、かなり難しい問題だからだ。異文化を学ぶという論理はたやすいし、あるいは日本文化との比較も面白い。が、比較してどうするのかと問われるととたんに答えられなくなる。

 異文化は優れているところもあるし欠点もある。日本の文化がそうであるようにだ。何故異文化を学ぶのか。そのことに普遍性があるからだという答えしかない。他者と出会うということは学ぶことでもある。相手がどんなに欠点をもとうともだ。まなぶことは相手を賞めることでもないし、けなすことでもない。強いて言えば、普遍的なレベルで、わたしたちとそうは違わないことや、あるいは違うことを「知る」ことだ。
 「知る」ことでわれわれはこの世界に深くかかわることが出来る。北朝鮮はわれわれから見れば欠点だらけの国だろうが、それでも、われわれと同じであったり違ったりしていることを「知る」ことが大事だ。

 だが一番やっかいなのは、経済的な格差に直面することである。異文化を論じるとき、この経済格差に対して、豊になるべきだという意見と、このままでいいという二つの意見に誰もが引き裂かれる。豊になれば固有の文化を失うからだ。
 豊かになって固有の文化を失わなければいいのだ。が、そうは上手くいかない。どうしたらいいのか、これは学生に考えてもらう。

 6時半から、森話社の大石さんと、中村生雄さんと、三浦佑之さんとで、供犠論研究会の論集発行の打ち合わせをする。家に帰ったのが12時。疲れた。
 とにかく他者を「知る」ことが大事なのだということで、生まれた句。


   今日からは他者(ひと)を愛せよ秋の暮れ