人間はほんとうにわからない2006/09/29 00:10

後期の授業も始まり、またあわただしく時が過ぎていく。風邪の後遺症はなかなか抜けず体調は万全とは言い難い。が、それでも仕事は山のようにある。こうやってあっというまに年をとっていくらしい。たぶんあと10年くらいでまともな仕事はできなくなるだろう。10年は早い。10年前に今の職場に勤めたが、あっという間だった。この10年、どんな10年だったのだろう。いろいろあったとも言えるし何も無かったとも言える。鮮やかなのは、ナナを飼い始めて最後を見届ける10年だったということだ。それだけは鮮やかである。

テレビでアザラシのロボット「パロ」を映画にとっているヨーロッパの監督のインタビューをやっていた。パロは世界一の癒しロボットとして世界の注目を集めている。特に老人へのセラピー効果はたいしたものらしく、その効果は日本だけでなくヨーロッパの老人ホームでも顕著であるという。

監督はヨーロッパではロボットに人間が癒しの感情を持つこと自体考えられないことであり、この現象は人間というものを考えるうえで重要だと哲学的なテーマをそこに見いだしていた。別に不思議でもなんでもない。かつて予備校で小論文を教えていたとき、こういうテーマの文章を扱い何度も受験生に小論を書かせた。

われわれにとって他者は本質的にはロボットと変わりがない。たとえそれが家族であろうと。なぜなら、われわれは他者と隔絶している以上、他者の感情や気持ちを本質的には理解できていない。それなのに他者の感情や気持ちが「わかる」のは自分の感情や心を他者に投影するからだ。とすれば、その投影の対象はモノでもありなのである。アニミズムは自然に人間が自分の畏怖の心を投影したものだ。だとすれば、心をもっているかのように動く「パロ」やそれこそぬいぐるみに感情を投影することは基本的には自然な人間の行為なのである。

60歳くらいの子どものいない夫婦が「パロ」を子どものようにかわいがり、話しかけている映像があった。要するにペットと同じである。相手がロボットであろうと犬であろうと感情を投影できる対象であればそれほどの違いはなくなる。私は、その映像をみながらナナとの10年を思い出した。そして、今はチビに感情を投影している。チビはまだ私になつかないが、しかし、そのなつかないしぐさに可愛らしさを感じる。人間の心の持ち方で感情はどのようにも投影できるのである。

モノに命を認めない一神教のヨーロッパの人間ですら、ロボット「パロ」に感情を投影しなければ生きにくいほど、現代の人々の心は繋がりを失いつつあるということらしい。やはりアニミズムを殺してしまった文化は、心にとってきついと思う。アニミズムをぬぐいきれない私たちの文化の良さは、一神教のような殺伐さをもたないことだ。自然との互酬的な関係をどこかに保っている。つまり、われわれはモノに感情や心を投影しやすい文化を持つ。言い換えれば偶像を崇拝しやすいし、どんなモノにも神を感じやすい。

『夜露死苦現代詩』都築響一(新潮社)はおすすめの本である。この中に死刑囚が執行の日に詠んだ句がいくつか出ている。その一つ

               綱
               よごすまじく首拭く
               寒の水

綱とは首にまくロープのこと。ここまで達観できるのは、俳句を通してモノにほとんど存在を投影できるからだ。思想というよりは、アニミズムの徹底した境地といえないか。

  房の蠅  いっしょにいのって  くれました

というのもある。宗教的な境地というほど大げさではない。モノとの互酬的な関係といえば別な意味でおおげさかも知れないが、蠅と自分が一体化できる境地には、ロボット「パロ」に癒される老人と同じこころの動きがある、と考えてもいい。モノに自分の感情や心を投影する働きである。

こういう人間というモノが、哀しい存在なのか、幸せな存在なのかはわからない。感情を移入する対象は、それ自体抽象的な観念ではなく、視覚や聴覚などの五感に反応するモノであることが大事だ。モノやペットで癒される辛さなどたいしたことはないという考えもあろう。が、どんなにすさまじい辛さも他愛のないモノで癒されることもある。人間というのはほんとうによくわからない。