そんなこんなで夏休みが終わる2006/09/14 00:20

中国から帰った後、30日から9月1日まで、遠野へと学生を連れて合宿に出かけた。学生の人数は6人ほど。10人以上の予定だったが数が減ってこれだけになったが、おかげで、トヨタのイプサムの新車をレンタカーで借りて行くことができた。8人乗りなので窮屈でもなく、東京から岩手まで、なかなか快適なドライブが楽しめた。去年はハイエースで、ディーゼルだったせいか、振動がひどくスピードも出ない、さすがに疲れた。

最近の車は、キーを差し込んでまわす必要がない。キーをもっていさえすればボタンを押せばエンジンがかかる。しかし、慣れないととまどうもので、どうしてもエンジンがかからないことがあった。さすがにあわてたが、ただ、ブレーキを踏んでボタンを押さないとエンジンがかからないという、きちんとした手順が必要だということがわかった。

遠野は学生のフィールドワークとしてはなかなかいいところだ。「遠野物語」の舞台となる地勢、山や川、お寺や神社、歴史、物語の舞台、すべてが何らかの形で残っていて、しかも、案内板も整備されている。語り部のおばあさん達もいる。あんまり整いすぎて、便利すぎて、フィールドワークなのか観光なのかわからなくなってしまう。さすがに、ほとんど知られていない「母也神社」は誰もいかない山の険しい道を上った藪の中にあった。るんるん気分で来ていた学生達を全員引き連れて登っていったら、さすがに、露出した生足を草で切ったり、靴を泥だらけにして、顔を引きつらせていた。この旅行はフィールドワークなんだから、そんな格好でどうすんだと、言いたいのを我慢していたのだが、これでフィールドワークの厳しさがわかったろう。

この人数だと、二泊三日で交通費込みで、遠野旅行が一人2万5千円でなんとか治まる(といっても運転手としての私の労働代は入っていないが)。学生の中には、これでも高くて参加できないというものもいる。強制ではないので仕方がないが、毎年の悩みである。最近、特に金銭的に余裕のない学生が増えてきた。格差社会という言葉がひょっとしたら、私の受け持つ演習ゼミにも忍び寄っているのかも知れない。

参加学生が10人を超えると、マイクロバスを借りなくてはいけないが私は大型の免許を持っていないので、運転手付きで借りると高くつく。かといって新幹線で往復すると、5万はかかる。今の情勢だと、5万の出費を学生に強いるのは厳しい雰囲気だ。なら大型免許をとってやろうかと一時真剣に考えた。マイクロバスだけ借りるとかなり安くなる。教員を首になってもそれで食っていけそうだしと思ったが、奥さんにいまさら取ってどうすんのと一喝され、すぐにあきらめた。

こういうことで、学生を引き連れての遠野合宿もそろそろ出来なくなりそうだ。そもそも、演習で「遠野物語」をやることに少し飽きてきた。これはよくないことだと思っている。あんなに面白い読み物はそうはない。学問の対象としても、文化論から民俗学、歴史、宗教学、文学等といろいろ多様にアプローチできる。が、あんまり整理されすぎて、未知の部分をみつけるのが大変なのも確かだ。

ともかくも、もう少し遠野に付き合ってみようとは思っている。帰りに花巻の「宮沢賢治資料館」に寄った。これもいつものコース。今年の夏、宮沢賢治学会で発表しませんかという誘いがあった。しかし、その日が中国から帰ってくる日で断った。発表してみたかった。

遠野から戻り、4日に医者へ行っていつもの血液検査。それから、学校へ行き雑務をこなして、そのままこれで休養ができると山荘に行った。5日に天気がいいので、権兵衛トンネルとやらを通って奈良井宿へ観光に行き、奥さんはなかなか良い塗りの漆器のお椀を買った。ところが、私はたんだんと身体の調子がおかしくなり、次の日、38度5分の熱を出した。風邪を引いたらしい。そのまま、寝込んだ。38度の熱は3日間続いた。こういう経験はめったにない。私はあまり熱を出して寝込んだ経験がないのだ。さすがに、体中が痛み、起きていられない(当たり前だ)。尖石診療所というログハウス風の洒落た診療所に行って薬をもらったがききやしない。

それでも永遠に風邪は引かないもので土曜あたりから熱が下がり、日曜にはほぼ回復。私は回復が早い。月曜からは仕事である。要するに休みに倒れて強制的に身体を休め、仕事が近づくと身体が元通りになるという、企業にとって模範的な身体にいつのまにか改造されてしまったのだ、この私の身体は。月曜はさすがに休んだが、火曜からは学校に出かけた。まだ夏休みだが私には結構雑務がある。

そんなこんなで夏休みは終わる。夏休みが終わると私と奥さんは一つ年をとる(誕生日は10月で一日違いなもんで)。また忙しい日々が始まる。慰めは、チビがようやく逃げなくなってきたことか。チビといる時とのささやかな幸福感とかいうと侘びしい人生のようだが、そんなものだ。幸福感は細部に宿る。

ついでだが、「さよなら絶望先生」(講談社コミック 久米田康治)は笑える。おすすめである。

人間はほんとうにわからない2006/09/29 00:10

後期の授業も始まり、またあわただしく時が過ぎていく。風邪の後遺症はなかなか抜けず体調は万全とは言い難い。が、それでも仕事は山のようにある。こうやってあっというまに年をとっていくらしい。たぶんあと10年くらいでまともな仕事はできなくなるだろう。10年は早い。10年前に今の職場に勤めたが、あっという間だった。この10年、どんな10年だったのだろう。いろいろあったとも言えるし何も無かったとも言える。鮮やかなのは、ナナを飼い始めて最後を見届ける10年だったということだ。それだけは鮮やかである。

テレビでアザラシのロボット「パロ」を映画にとっているヨーロッパの監督のインタビューをやっていた。パロは世界一の癒しロボットとして世界の注目を集めている。特に老人へのセラピー効果はたいしたものらしく、その効果は日本だけでなくヨーロッパの老人ホームでも顕著であるという。

監督はヨーロッパではロボットに人間が癒しの感情を持つこと自体考えられないことであり、この現象は人間というものを考えるうえで重要だと哲学的なテーマをそこに見いだしていた。別に不思議でもなんでもない。かつて予備校で小論文を教えていたとき、こういうテーマの文章を扱い何度も受験生に小論を書かせた。

われわれにとって他者は本質的にはロボットと変わりがない。たとえそれが家族であろうと。なぜなら、われわれは他者と隔絶している以上、他者の感情や気持ちを本質的には理解できていない。それなのに他者の感情や気持ちが「わかる」のは自分の感情や心を他者に投影するからだ。とすれば、その投影の対象はモノでもありなのである。アニミズムは自然に人間が自分の畏怖の心を投影したものだ。だとすれば、心をもっているかのように動く「パロ」やそれこそぬいぐるみに感情を投影することは基本的には自然な人間の行為なのである。

60歳くらいの子どものいない夫婦が「パロ」を子どものようにかわいがり、話しかけている映像があった。要するにペットと同じである。相手がロボットであろうと犬であろうと感情を投影できる対象であればそれほどの違いはなくなる。私は、その映像をみながらナナとの10年を思い出した。そして、今はチビに感情を投影している。チビはまだ私になつかないが、しかし、そのなつかないしぐさに可愛らしさを感じる。人間の心の持ち方で感情はどのようにも投影できるのである。

モノに命を認めない一神教のヨーロッパの人間ですら、ロボット「パロ」に感情を投影しなければ生きにくいほど、現代の人々の心は繋がりを失いつつあるということらしい。やはりアニミズムを殺してしまった文化は、心にとってきついと思う。アニミズムをぬぐいきれない私たちの文化の良さは、一神教のような殺伐さをもたないことだ。自然との互酬的な関係をどこかに保っている。つまり、われわれはモノに感情や心を投影しやすい文化を持つ。言い換えれば偶像を崇拝しやすいし、どんなモノにも神を感じやすい。

『夜露死苦現代詩』都築響一(新潮社)はおすすめの本である。この中に死刑囚が執行の日に詠んだ句がいくつか出ている。その一つ

               綱
               よごすまじく首拭く
               寒の水

綱とは首にまくロープのこと。ここまで達観できるのは、俳句を通してモノにほとんど存在を投影できるからだ。思想というよりは、アニミズムの徹底した境地といえないか。

  房の蠅  いっしょにいのって  くれました

というのもある。宗教的な境地というほど大げさではない。モノとの互酬的な関係といえば別な意味でおおげさかも知れないが、蠅と自分が一体化できる境地には、ロボット「パロ」に癒される老人と同じこころの動きがある、と考えてもいい。モノに自分の感情や心を投影する働きである。

こういう人間というモノが、哀しい存在なのか、幸せな存在なのかはわからない。感情を移入する対象は、それ自体抽象的な観念ではなく、視覚や聴覚などの五感に反応するモノであることが大事だ。モノやペットで癒される辛さなどたいしたことはないという考えもあろう。が、どんなにすさまじい辛さも他愛のないモノで癒されることもある。人間というのはほんとうによくわからない。