正岡子規と引きこもりのチビ2006/07/25 22:15

それにしてもだいぶこの時評の間隔もあいてしまった。一月ぶりというのは久しぶりだ。理由はいつもと同じ忙しい。文科長という仕事は、一応管理職だが、実態は苦情受付係であり、伝達係であり、よろずや相談係である。確かに真面目にやると身が持たない。これでも真面目だからそろそろ身が持たなくなってきている。

そのせいか夏風邪を引いた。長梅雨で寒さが続いたのと、夏雲南の白族シンポジウムで発表する原稿を書いていたためだ。原稿を書き始めると睡眠時間が短くなるので体調を壊す。冬はたいした風を引かずに乗り切ったのだが、夏に引くとは、しかも、これからようやく夏休みだというのに。

この一月世の中いろいろあった。レバノンでは戦争だし、北朝鮮はテポドンだし、相変わらず日本では人が殺されているし、安部総理大臣になりそうだし、そして、うちのチビはいまだに何を考えているのかよくわからない。

人の側に全く近寄らないときもあればすり寄ってくることもある。何かの拍子に心が閉じこもってしまうのか、そうなると、部屋の暗がりに引っ込んでいつまでもじっとしている。心が見えない犬も困ったものだ。だから他の犬なら甘やかしすぎだと言われそうだが、食事の時は食べものを見せて呼ぶのだが、来るには来るが、だから甘えるようになるかというとそうでもない。わがままでいいから傍若無人に振る舞ってほしいと思うが、そんなにはしゃぎもしない。こんなに気を遣うなんて思っても見なかった。

けれども、小さい生き物だからそこが面白いといえば言える。何を考えてんだかか分からないか弱い存在が側にいるのもいいものかも知れない。それが熊のような生き物だったらただ怖いだけだが。とにかく、わたしたち夫婦はチビの気持ちが今どうなっているかを気にしながら腫れ物を障るように接している。奥さんは、あなたはがさつだからチビの前では静かに歩けだとか、近づくときは背を低くして近づけとかいろいろうるさい。近づいていって逃げ出さなかったときはほんとにほっとする。

「月光」に正岡子規の原稿を書いて送った。書くことないので、その文章を以下に掲載。

 柄谷行人は『世界共和国へ』(岩波新書)で、明治の国民国家成立の必要条件として、互酬的交換(共同体)の世界が想像的に回復されなければならなかったと述べている。市場原理に基づく交換経済の拡大が近代の国民国家を成立させたとは自明なことだが、国民国家というシステムをより互酬的システム(古代的なシステムといってもよい)なしには成立しないと強調したところがポイントだ。

むろん、互酬交換は古代的なものであるというよりは、それが想像的に回復されるという意味で新しいのであるという含みもある。つまり、現代を覆う世界資本主義といった交換経済の果てしない欲望の追求に歯止めを掛けるこれからの世界のあり方として「互酬的」な世界(世界共和国)が改めて問われなければならないという、それは含みでもあろう。

国家はそれ自体、自身を維持するための暴力装置を本質として持つにしろ、共同体という、人々の社会生活の相互互助的な仕組み無しにはまた成立しない。近代国家は、より資本主義的交換経済の拡大に見合ったものとしてであるにしろ、絶えず、資本主義とは矛盾した側面を抱え込む。それが、時には、ナショナリズムとして、あるいは、伝統的な美へ 回帰する傾向を生むわけである。

つまりこういうことかも知れない。資本主義の先にある、というよりは資本主義の限界の先にある社会のイメージが互酬交換的なネットワーク(柄谷の言う『世界共和国』)であるとするなら、それは、それこそナショナリズムや伝統を生み続ける想像力とすれすれのところで構築されるものである、ということである。

互酬的世界観は、また中沢新一が述べているところの対称的世界観でもある(『カイエ・ソバージュ』のシリーズ)。世界を彼此の二つに分け、神の世として幻想する向こう側との互酬的な関係を、何万年もの間人類は哲学として持ち続けてきたのに、この互酬的関係を壊し、此岸を絶対化することで、この世の欲望を追求し続ける資本主義的世界が成立した。中沢新一はこのようにとらえて、対称的世界観の想像的な回復を説く。

どうもこのように、「互酬」や「対称」というタームが流行しているのだが、かつてのポストモダニズムがようやく一周して、また、新しい装いのもとで元に戻ったというところだろうか。もともと、ポストモダンの流れの中で古代文学研究や短歌評論を手がけた私には、こういう最近の思想の光景は受け容れやすい。

実は、このような論理は、和歌の問題としても語れるのではないかと思っている。明治初期に和歌は旧詩型として攻撃されたが、革新運動によって生き残る。和歌という伝統が何故近代国家として出発した日本で継承されなければならないのか。たぶん、和歌が、詩のことばを生成させるそのところで、互酬性もしくは対称的な関係を失っていないからではないか。   最近、正岡子規を読み始めているのだが、この正岡子規の短歌には、新しい時代における詩の表現と、同時にそれだけでは捉えきれない、表現の古代性、言い換えれば互酬性があるのではないかと思っている。  俳句の革新をだいたいやり終えた正岡子規は明治31年に「歌よみに与ふる書」で和歌革新運動にのめり込んでいく。

正岡子規の短歌論が、ある特定の閉鎖的な文化空間であった歌壇を打破しようとする気概に満ちたものであったことは言うまでもなく、その閉鎖的で旧弊な和歌を古今集に象徴させ、万葉集を、新しい時代に相応しい和歌として褒めていった。が、何故「万葉集」なのかを子規はそれほど語るわけではない。有名なのは「写生」だが、アララギ派によって観念的な意味づけを与えられるまでの子規の写生は、それほど深い意味内容を持っていたわけではない。ただ、子規は、見たままに見たことを裏切らない描写にこだわった。

子規は古今的な和歌の欠点を饒舌に指摘していったのだが、それは、「理屈」の歌、すなわちいかにも修飾語然とした修飾によって作られた歌である。いかにも分かってしまう意味としての虚構を嫌い、和歌から、修飾語のあるいは意味の、自己言及的で過剰すぎる虚構空間を拒否したのである。それらは全部あざといものであり、そのあざとさをあざといと思わない感覚の麻痺に、旧弊な時代を見出したのである。

その思いは、与謝野鉄幹もまた同じだったろう。が正岡子規が与謝野鉄幹等の明星派と違ったのは、修飾や意味のあざとさあるいは過剰さをそぎ落とす方向で、和歌のあり方を考えたことである。与謝野鉄幹や晶子は、鬱屈した恋愛感情を、象徴的な表現手法を駆使しながらむしろ過剰なほどに解放し、新しい時代の精神を示したが、それは、過剰な意味のそぎ落とし出はなく、その時代を生きる精神または感情の型にあう喩や象徴的なイメージの獲得であった。与謝野晶子の歌は、その生き方の能動的な心が修飾的な言葉に勝っているときは、新鮮で感動的であったが、その能動性が失われれば、修飾する言葉のあざとさに主体が負けてしまう。後期の与謝野晶子の歌が修飾のための修飾だとして批判されるのはそういった理由による。

一方で子規は、技巧的であざとい虚構をそぎ落とすことに表現の価値を置いた。だから子規の短歌観が、ごくシンプルな描写を価値とすることに行き着くのは自然であった。子規は西欧の遠近法の新しさを強調し、日本の絵画における距離感のだめさを指摘しているが、これは彼の俳句や短歌に於ける考えと一致している。「理屈」を排除した、見たままに近い描写を描くことは方法としては新しいのだと考えたのである。

むろん、子規は和歌表現の価値を「写生」に一元化したわけではない。万葉の歌の本歌取りを積極的に行った源実朝の歌、例えば「大海のいそもとゝろによする波われてくだけてさけて散るかも」を激賞する。この歌は写生ではない。それなりに大仰な修飾がないわけではないが、子規はここに「理屈」はないと読んだのである。このように読めるということが大事なのであって、そこに率直な真情が意味を超えて感じ取れるということを子規は評価している。そこには歌の評価を、言葉の技巧だけで論じるのではなく、表現の向こう側にある存在というものにまで届かそうとする意識があろう。歌の評価も、絵画や文学と同じように普遍的で無ければならぬと考えた、ということである。

その意味では、子規の和歌革新の方法は、新しい時代の人間の感性に響きあうものであって、その新しい時代の人間の心を動じさせて初めて短歌は表現として自覚され、子規はその自覚による短歌の理想的なあり方を、「理屈」を排除した「写生」にあると考えたわけである。

ただし、「六たび歌よみに与ふる書」(明治31年)で、文学は合理非合理を論じるものではなく、神や妖怪を描くのにも写生で描くことはあるのだ述べるように、写生とは、何を描くかではなく、そのように描くことの価値であると言うような言い方をする。つまり、写生とは、あくまで方法の問題であった、ということなのだ。  だが、子規が結核でついに寝たきりの状態に陥り、その「病牀六尺」の世界に閉じられ(明治34・35年)、そこで見た光景を「写生」として歌に読み始めると、方法論であったこの写実の論理は、にわかに、別の様相を帯びてくるように思われる。

   瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとどかざりけり
   瓶にさす藤の花ぶさ一ふさはかさねし書の上に垂れたり
   瓶にさす藤の花ぶさ花垂れて病の床に春暮れんとす

   これらの傑作とも絶唱とも評価される歌には、明らかに、描写の対象であるささやかな自然と歌い手との間に互酬的な関係が成立している。斎藤茂吉が「写生」を「実相観入」と評したように対象に本質を見る方法とか、あるいは、対象のみを通してこちら側の心を伝えることとかいろいろと言われるが、ここで生起したのは、言葉によって、歌い手と表現された対象とが、此岸の歌い手と彼岸の対象という対称的な世界もしくは互酬的な関係に別けられたということである。

別な言い方をすれば、歌い手にとって「藤の花」はあの世(神の世)としての自然なのであり、その自然にある意味では選ばれた自分とが、その自然との対称的な関係以外の世界を消去し得たということである。その消去は、「理屈」を排除してシンプルな描写にこだわる「写生」の方法が可能にしたものだが、この「写生」はいつのまにか、子規の歌において、対象としての小さな自然(だがそれは宇宙とも言える)との互酬的、もしくは対称的な世界を構築してしまったのである。

ここで言う互酬的とか対称的というのは、自然を外部として畏怖する共同体的な生活形態の中で形成されたものだが、和歌(俳句)はこのような世界観を伝統としてかかえこんでいたのであって、その意味では、その伝統が、子規の病床の短歌において「写生」の装いのもとに想像的に回復されたのだと言ってよい。

その意味において近代短歌が、子規の「写生」を一つの起点として出発したのは当然だった。近代国家は互酬性を必要としたのであり、「写生」は、方法としては革新的でありながら、その本質において互酬的な世界を人々に与える方法として広がって行ったのである。

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