「海を飛ぶ夢」と正岡子規2006/06/25 23:17

最近チビと顔を会わせる時間がすくないものだから、チビはまだ私に慣れない。ナナと違ってチビは雷や花火の音には無反応なのだが、私が何かを床に落としたりするとその音に驚いて逃げ出す。雷などには驚かないのに日常のちょっとした音に敏感なのだ。どういう基準なのかよくわからん。今朝財布を床に落としたものだから、一日チビは私を警戒し寄りつかなかった。夕方散歩にいったが、並んで歩こうとすると、必死になって私から遠ざかろうと身をよじる。私が二階にいると一階に行き、一階に行くと二階に行く。まったく悲しい話だ。

通風の腫れはようやく治まった。先々週の月曜に大腸の検査に行ったのだが、その折り医者が特効薬だと言ってくれた薬がさすがに効いた。大腸の検査とは前々から受けなくてはと思っていたのだが、ようやく重い腰をあげたというわけだ。内視鏡の検査だが、麻酔を使うのでほとんど苦痛はない。最近は進歩したものだ。だが、ポリープがあると言われた。組織検査の結果は来週ということで、その次の週までの一週間はなかなか落ち着かなかった。医者は良性だろうと言うが、結果が出るまでは落ち着くものではない。特に、私などはいつも最悪を考える習慣が身に付いているから、気分の優れない一週間だった。結果は良性で、時々検査の要ありということで一段落したが、いろいろと考えた一週間だった。

正岡子規の「病床六尺」を読んでいたのも良くなかったかも知れない。この随筆を書いている子規は、次の年に自分は生きていないであろうことを知っている。そして次のように書く。「死生の問題は大問題ではあるが、それは極単純なことであるので、一旦あきらめてしまえば、直に解決されてしまふ」。なかなかこう言えるものではない。むろん子規があきらめていたとは思えない。あるいはこうも言う「余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解していた。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思っていたのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった」。

子規が病床で平気で生きていたわけではない。毎日患部の包帯を取り替えるたびに痛みで絶叫し倍ものモルヒネを飲む。が、そうでも精神の落としどころを揺るぎなく持っていたとは言えるだろう。それがあきらめなのか悟りなのかはよくわからない。どっちでも同じ事かも知れないが、ただ、苦痛に絶叫しなければ居られないような生の中で、社会や日常の生活世界への関心あるいは好奇心を最後まで失わなかったのは、精神は前向きであったからで、むしろこの方が凄い。

最近見た映画で「海を飛ぶ夢」というのがある。スペイン映画で、いろんな賞を取った映画だ。事故で寝たきりになってしまつた主人公が、家族の暖かい看護に支えられながらも、尊厳死を訴え、ついに周囲の助けを借りて自殺するというものだ。生と死を考えさせる感動の映画だという評判だが、確かにいい映画だとは思うが、私にはあまり納得の出来ない映画ではあった。兄や義姉、両親や弟の手厚い看護を受けながら、尊厳死を認めさせる裁判を起こし、世間からは、看護が悪いのではないかと家族が疑われる。

家族は嘆き悲しむ。それはそうだろう。世間からは誤解されるしたとえ寝たきりでも生きていることの重さに誰も逆らえないから看護しているのに、本人は生きている意味はないと言うのだ。この場合、大事なのは、自分にはもう生きる意味はないと言っているのではなく、こういう状態の人間には生きる意味はないから死を認めろと言っていることで、つまり、生きるのが嫌になったからではなく人間性の尊重という理屈で自殺を主張する。自分を、普遍的な人間とみなしているのだ。だからボランティア団体が人間性を守ために彼の自殺を助けるのだ。が、家族にとっては、彼は普遍的な人間ではなくただの家族に過ぎない。そのギャップを誰も埋めようとしないし気づきもしない。この映画の投げかける問題の本質はそこにあるのだが、この映画は残念ながらそのことに気づいていない。

兄がお前は自分勝手だと主人公に怒る場面がある。この怒りは重い。介護をするのは理念でも何でもなく、身内にそういうものがいたらそうせざるを得ないからだ。そこに関係というものの重さがある。少なくとも主人公は、この関係の重さの側から自分の生を見つめているとは思われない。もし、家族の負担を思いやるための死の決意なら、そう言えばよい。が主人公の死の決意は、自分の力で生きられない人間は生きる価値がないというところにあるとしか見えない。その意味で、この映画は、尊厳死に焦点を当てすぎている。その発想は、どこかで自立していない人間は生きる価値がないという西欧の危うい思想を思わせる。

正岡子規は、生死の問題はあきらめれば直に解決がついてしまうと言ったその後で、自分を看護する妹律の悪口を書き連ねている。この文章も凄い。よくやってくれるけれど律は教養がないから話相手にならなくてつまらない、これからはこういう時のために女子教育が必要だなどと書く。フェミニストが読んだら怒りそうな文章だが(実際に渡辺澄子氏がかなり怒った子規批判の文章を書いている)。看護するものに感謝の念など書こうともしない。

死ぬことがわかっている人間の苦痛に満ちた生活の中での発言だが、しかし、精神の冷静な子規にしては言い過ぎだろうと誰もが思う文章だ。むろん子規を弁護する気はないにしても、本心はわからないにしても言ってはいけないことを言っているこの文は、子規の弱さを示してはいよう。が、たとえ家族であっても、死にかかっている人間を看護することとは、人間の優しさや尊厳、あるいは看護するものとされるものとの愛情などというきれい事ではない問題があるというリアリズムを読み取ることができる。少なくとも、子規は、この期に及んで自分と家族との関係の複雑さ重さをそのまま描こうとしている。これもまた凄い。

子規は余りの苦痛に自殺しかかったことはあるにしても、限られた生という宿命を受け容れ、看護するものの悪口を言いながらもその生を平気を装いながら懸命に生きる。一方、「海を飛ぶ夢」の主人公は、家族の暖かい愛情に包まれた看護を受けながら、人間の尊厳のために自殺させろと訴える。このよう比較すると、「海を飛ぶ夢」の主人公はいい気なもんだと思ってしまうのは私だけだろうか。