解決の無いことを共有することによる解決2006/06/13 23:51

サッカーはオーストラリアに負けて当然だった。日本の一点だって、あれは反則だろう。なんて言うか、日本代表はかっこよくサッカーをやろうとしすぎる気がする。ワンタッチでパスして前線にまわすのは確かにかっこいいが、最後に相手にパスしてどうするんだ、というような場面が何度かあった。オーストラリアの方が泥臭く試合していた。最後の運動量は相手が勝っていた。スポーツというものの基本のところで負けていた気がする。

相変わらず通風の腫れは引かない。もう三週間になる。どうやら一ヶ月はかかりそうだ。足を引きずりながら仕事をしている。人に通風で足が痛いというたびに贅沢病だと判を押した様な答え。いったいこの反応は何なんだ。今時、贅沢病はないだろう。贅沢な奴は、値段の高い魚や無農薬野菜を食べて健康に気を遣う。貧乏な奴や忙しい奴は、コンビニでカロリーの高いファストフードや弁当で食事をすませる。今は、貧しいか忙しくてストレスの高いものが通風になる。

だからこの一ヶ月はほとんど鬱状態だ。6月3日は古代文学会の例会で「環境論」のシンポジウム。私は司会だったが、ほとんど司会としての役を果たさなかった。発表者のお二人に迷惑を掛けた。ただ、発表者の話はとても面白く、資料も充実していたので、会場の参加者は満足しただろうと思う。問題なのは話をきちんと整理しきれなかった私である。

問題点の整理はそんなに難しいとは思っていなかったのだが、両者の話、特に北条氏の話を聞いて、いろいろと考えてしまったので、司会としての頭にとっさに切り替えられなかったのが原因である。北条氏の出した、「伐採抵抗伝承」とも言える「木鎮め」や「木霊婚姻譚」が、中沢新一が言う人間と神(自然)との対称的な関係とは違う、それを超えうる可能性を孕むという解説を聞いて、それはどういうことなんだろう、と考えながら司会をしたもんだから、司会にならなかった。ただ、質問者がそこはフォローしてくれたので、何とかシンポジウムとしてうまくいったように思う。

互酬的な関係を欺瞞として退けることは、ある意味では、開発を支えるこちら側の欲望の肯定につながる。だが、北条氏は、樹木の立場を思いやるような心性がそこにある限り、そこに互酬性でもないかといってこちら側の一元的な欲望の肯定でもない、可能性があり得るのだと、そういうことらしい。当初のそのイメージ上手くつかめなかったのだが、最近何となく分かってきた。なんだそれって和歌の心性じゃないかということだ。

私は、短歌を、ローポジションでハイテンションの詩型だと常々言っている。超越的な高みに立たないで、地上的な位置から「情」のたかぶりを表現の力としていく。「情」とは、他者による憑依、もしくは他者への憑依の心の動きである。とすれば、「伐採抵抗伝承」は「情」によって関係づけられる他者としての「樹木」との物語ということになる。一見互酬的に見えるが互酬的でないのは、詩の表現とは、互酬的な世界を前提としつつも、その行為自身は、互酬的な関係にある他者の喪失の上に成立するものだからだ。別のいい方をすれば、互酬性を失ったからこそ、互酬性を想像的に回復する(柄谷行人の言い方)行為として、詩の表現が成立するということだ。

最近、清水正之『国学の他者像』(ぺりかん社)を読んでいるのだが、本居宣長もまた、同じ問題につきあたっていることがよく理解できた。宣長がすなおさとしての「情」を価値化していくのは、唐才としての超越性とは違うところで、私の言い方でいえば、地上的な位置からでも可能な普遍性の有りどころを探っていくと古代的な「もののあはれ」としてのハイテンションで素直な「情」に行き着くしかなかつたのだ。だが、それは、超越的な高みに立たないから理想とされたのに、唐才に対抗させた途端に高みにたつイデオロギーになる。そこにジレンマがある。

たぶん北条氏は高みに(私の言い方で言えばハイポジションに)立たない普遍性を探している。そのことはよく理解できた。ただ、互酬的な関係それ自体を全部欺瞞といいきってしまうことはどうか。人間は失われた互酬的関係を想像的な回復しないと生きていけないという面もある。そこまで否定してしまうと、いつたん人間の欲望を全部肯定しないと(悪人正機説みたいに)救われないなんてことにならないか。

そこはなかなか難しいところである。彼岸と此岸との二項対立を幻想しないと生きていけない人間を、この世の生産関係によって観念は変わると唯物論的に処理するのではなく、この世の側の問題であるにしろ、この世の側での問題としては処理できないという自明なこと、それはこの世に抱え込んだ異和そのものでもあるが、それを、ニヒリズムに陥らない方法でどう対象化し、どう表現し、そして、どう共有していくのか、そういう試みの中にしか解決はないだろう。

解決の無いことを共有することによる解決、というようなこと。なんだか悪人正機説に近くなってきた気がするが、たぶん、北条氏の言わんとしていることを、私の側に引きつけて読み替えてしまえば以上のようなことになろうか。

「海を飛ぶ夢」と正岡子規2006/06/25 23:17

最近チビと顔を会わせる時間がすくないものだから、チビはまだ私に慣れない。ナナと違ってチビは雷や花火の音には無反応なのだが、私が何かを床に落としたりするとその音に驚いて逃げ出す。雷などには驚かないのに日常のちょっとした音に敏感なのだ。どういう基準なのかよくわからん。今朝財布を床に落としたものだから、一日チビは私を警戒し寄りつかなかった。夕方散歩にいったが、並んで歩こうとすると、必死になって私から遠ざかろうと身をよじる。私が二階にいると一階に行き、一階に行くと二階に行く。まったく悲しい話だ。

通風の腫れはようやく治まった。先々週の月曜に大腸の検査に行ったのだが、その折り医者が特効薬だと言ってくれた薬がさすがに効いた。大腸の検査とは前々から受けなくてはと思っていたのだが、ようやく重い腰をあげたというわけだ。内視鏡の検査だが、麻酔を使うのでほとんど苦痛はない。最近は進歩したものだ。だが、ポリープがあると言われた。組織検査の結果は来週ということで、その次の週までの一週間はなかなか落ち着かなかった。医者は良性だろうと言うが、結果が出るまでは落ち着くものではない。特に、私などはいつも最悪を考える習慣が身に付いているから、気分の優れない一週間だった。結果は良性で、時々検査の要ありということで一段落したが、いろいろと考えた一週間だった。

正岡子規の「病床六尺」を読んでいたのも良くなかったかも知れない。この随筆を書いている子規は、次の年に自分は生きていないであろうことを知っている。そして次のように書く。「死生の問題は大問題ではあるが、それは極単純なことであるので、一旦あきらめてしまえば、直に解決されてしまふ」。なかなかこう言えるものではない。むろん子規があきらめていたとは思えない。あるいはこうも言う「余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解していた。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思っていたのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった」。

子規が病床で平気で生きていたわけではない。毎日患部の包帯を取り替えるたびに痛みで絶叫し倍ものモルヒネを飲む。が、そうでも精神の落としどころを揺るぎなく持っていたとは言えるだろう。それがあきらめなのか悟りなのかはよくわからない。どっちでも同じ事かも知れないが、ただ、苦痛に絶叫しなければ居られないような生の中で、社会や日常の生活世界への関心あるいは好奇心を最後まで失わなかったのは、精神は前向きであったからで、むしろこの方が凄い。

最近見た映画で「海を飛ぶ夢」というのがある。スペイン映画で、いろんな賞を取った映画だ。事故で寝たきりになってしまつた主人公が、家族の暖かい看護に支えられながらも、尊厳死を訴え、ついに周囲の助けを借りて自殺するというものだ。生と死を考えさせる感動の映画だという評判だが、確かにいい映画だとは思うが、私にはあまり納得の出来ない映画ではあった。兄や義姉、両親や弟の手厚い看護を受けながら、尊厳死を認めさせる裁判を起こし、世間からは、看護が悪いのではないかと家族が疑われる。

家族は嘆き悲しむ。それはそうだろう。世間からは誤解されるしたとえ寝たきりでも生きていることの重さに誰も逆らえないから看護しているのに、本人は生きている意味はないと言うのだ。この場合、大事なのは、自分にはもう生きる意味はないと言っているのではなく、こういう状態の人間には生きる意味はないから死を認めろと言っていることで、つまり、生きるのが嫌になったからではなく人間性の尊重という理屈で自殺を主張する。自分を、普遍的な人間とみなしているのだ。だからボランティア団体が人間性を守ために彼の自殺を助けるのだ。が、家族にとっては、彼は普遍的な人間ではなくただの家族に過ぎない。そのギャップを誰も埋めようとしないし気づきもしない。この映画の投げかける問題の本質はそこにあるのだが、この映画は残念ながらそのことに気づいていない。

兄がお前は自分勝手だと主人公に怒る場面がある。この怒りは重い。介護をするのは理念でも何でもなく、身内にそういうものがいたらそうせざるを得ないからだ。そこに関係というものの重さがある。少なくとも主人公は、この関係の重さの側から自分の生を見つめているとは思われない。もし、家族の負担を思いやるための死の決意なら、そう言えばよい。が主人公の死の決意は、自分の力で生きられない人間は生きる価値がないというところにあるとしか見えない。その意味で、この映画は、尊厳死に焦点を当てすぎている。その発想は、どこかで自立していない人間は生きる価値がないという西欧の危うい思想を思わせる。

正岡子規は、生死の問題はあきらめれば直に解決がついてしまうと言ったその後で、自分を看護する妹律の悪口を書き連ねている。この文章も凄い。よくやってくれるけれど律は教養がないから話相手にならなくてつまらない、これからはこういう時のために女子教育が必要だなどと書く。フェミニストが読んだら怒りそうな文章だが(実際に渡辺澄子氏がかなり怒った子規批判の文章を書いている)。看護するものに感謝の念など書こうともしない。

死ぬことがわかっている人間の苦痛に満ちた生活の中での発言だが、しかし、精神の冷静な子規にしては言い過ぎだろうと誰もが思う文章だ。むろん子規を弁護する気はないにしても、本心はわからないにしても言ってはいけないことを言っているこの文は、子規の弱さを示してはいよう。が、たとえ家族であっても、死にかかっている人間を看護することとは、人間の優しさや尊厳、あるいは看護するものとされるものとの愛情などというきれい事ではない問題があるというリアリズムを読み取ることができる。少なくとも、子規は、この期に及んで自分と家族との関係の複雑さ重さをそのまま描こうとしている。これもまた凄い。

子規は余りの苦痛に自殺しかかったことはあるにしても、限られた生という宿命を受け容れ、看護するものの悪口を言いながらもその生を平気を装いながら懸命に生きる。一方、「海を飛ぶ夢」の主人公は、家族の暖かい愛情に包まれた看護を受けながら、人間の尊厳のために自殺させろと訴える。このよう比較すると、「海を飛ぶ夢」の主人公はいい気なもんだと思ってしまうのは私だけだろうか。