家持と「海行かば」と勘違い2006/04/26 00:05

久しぶりに自宅の近くの新河岸河畔を遠征し、川越美術館まで歩いていった。今、新河岸の土手は菜の花で満開である。これは絶景である。本当はチビの散歩でいつも通るコースなのだが、いつも散歩する時間もなく歩いてないので、天気のいい休みということもあって、美術館まで歩くことにした。

古代文学会の呉さんの紹介で呉さんの友人でもあるという、齋藤研の回顧展を今やっている。券をいただいたので、奥さんと行くことにした。私は普段の運動不足の解消のため歩いて行き、奥さんは車。歩いて30分ほどで着いた。

齋藤研の絵は以前にも見たことがある。確か呉さんの紹介だったと思う。リアルな描写を断片的にコラージュ風につなぎながら、シュールな光景を描く。あるいは、博物誌的なコラージュの背景に人物や物や風景をパッチワークのように貼り合わせて描いていく。細部の描写がリアルだから、不思議な感覚にとらわれる。なかなか見応えのある絵であった。多くの人物像の顔はかなり暗く硬いものであった。それが印象的である。現代の顔の一つの象徴なのだろうと思った。

絵を見るのは久しぶりだ。次の日は月光の会で万葉の講義。家持の「陸奥の国に金を出しし詔書を賀し歌」を扱った。この歌の中の言葉「海行かば、水漬く屍(かばね)、山行かば、草むす屍、顧みはせじ」は、戦争中、「海行かば」の歌として、うたわれたものである。最近、丸山隆司がこの戦争中にどのように「海行かば」が歌われたかを検証している(「藤女子大学国文」)。

「海行かば」は当初武士道的心を歌うものとして戦意高揚の意図を持たせられたが、次第に戦死者の鎮魂の際に流れる音楽になっていったという。その荘重な音楽を聴けば確かにこれは鎮魂歌だろう。

それはともかく、何故、この言葉が近代に発見されたのか、どうして家持はこの言葉を歌の中に入れたのか。聖武天皇の詔書に大伴家の栄誉をたたえる言葉として大伴家の伝承とも言えるこのフレーズを用いたことに対して、家持が感激し、そのフレーズを用いて長歌を作ったらしいということだが、多田一臣によると、どうも、家持はこの詔書で初めて大伴家に伝わるこのフレーズを知ったのではないかという。

しかも、家持は、すでに大伴家では傍系で族長の立場ではない。国守として赴任した越中で、公的な目的を持たずに、いわば誰に向かってという明確な目的を持たずに作っている。当時の大仏鋳造という一大事業は、律令の中央集権国家完成を目的にするものであり、氏族的意識を打破する目的がある。それを推進したのは、大伴家と敵対した藤原家である。この歌はそういう時代の流れとずれているのである。

多田一臣は、家持のこの長歌は大いなる錯誤によって成り立っているというのである。つまり、この詩人は現実とずれてしまっていた。別な言い方をすれば現実とずれてしまったから、このフレーズを詩の言葉として発見しえたのだ。家持は、現実ずれることによって、このフレーズにいかにも詩人的なしかも自分のアイデンティティを発見したかのような過剰な反応をしたのだ。そうして詔書に書かれた海行かばのフレーズを、詩の言葉として捉え返したのだ。その詩の言葉は、妙な力を持ってしまったらしい。

日本の近代もまた、現実とずれた連中が戦争をやっていたが、彼等は、この詩の言葉に感動した。おそらくは、家持は大伴家という氏族の中の自分をこのフレーズによって発見したが、そのたかぶりを近代になって引き継いだ連中は、国民が自分を発見すべきフレーズとしてとらえるべきだと考えたのだ。

だが、日本の国民は、このフレーズを戦争で死んでいくもの達を送る言葉として捉え返した。ひょつとすると、このフレーズは案外そういう言葉だったのかも知れない。それを大伴家も近代の国家も勘違いで用いていたのかも知れない。

そんなことをしゃべっていたが、一人の年配の聴き手が、いろいろと私の万葉観にいちゃもんをつけてきた。最初から攻撃的な質問に私も上手く答えられなく消耗したが、まあこういうときはままある。その人は、万葉学者のある先生を信奉しているらしく、私が違う万葉をかたったものだから腹を立てたらしい。

自分が信じている世界と違う話を聞いたとき、人はどうふるまうか。その一つの典型的な例に私は巻き込まれたのだが、残念ながら、そういうときに上手く振る舞えないのは、私の性格である。理論武装はいつもことが終わってからで、いつも遅いのだ。まあだいたいいつもそんなものだ。でも、だから私はだめだとは思っていない。もしその場で相手を論破する反射神経と明晰さがあったら、私は研究者や文学にかかわることはやっていなかった。何をやつていたかは分からないが、神経をぼろぼろにして人を攻撃する辛い人生を送っていたろう。こんなところでいいのだと思う。