面白いけどうさんくさい2006/01/25 22:24

チビです

私は自分のホームページをもっていて、そこでいろいろ文章を書いているのだが、ブログというのをやってみたくなって、ここに開設。おめでとう。   まずは最近飼った犬の話から。   チビは相変わらずチビのままだ。もう少しまともな名前をつけたらと言われるが、いいのが思い浮かばない。だいぶ慣れてきて、いたずらもするようになった。だが、私には慣れない。抱こうと近寄ると後ずさりする。体が大きい人や突然の動作に警戒してしまうらしい。体の小さい犬なのでその分臆病らしい。今のところ、奥さんだけが飼い主で私はその他大勢らしい。情けない。

どうも純血の豆柴らしく、散歩で会う何人かの人にこれはいい犬だと言われたそうだ。ペットショップでもこれほどの犬はいない、スーパーでつないでおいて目を離したら誰かに持って行かれますよ、と何人かに言われたらしい。そう言われても、別にこっちで選んだわけじゃないし、そんなにいい犬を飼うつもりはなかったのにと、やや当惑気味である。

でもやはり家に生き物が増えるとなんとなく気分が違う。原稿を書いて疲れると、チビのところへ行って撫でてやる。それで気分転換になる。ただ、近づくと逃げるので、そこが今のところ悲しい。

正月は、古代文学会の発表準備、2月には「日本文学」の原稿の締め切り。そして、2月中に、授業用のテキストの原稿250枚ほど書いて出さないとまずいことになっている。後100枚残っている。今まで授業の度にプリント配ってしゃべっていたので、大学から予算をとって、テキストを作ると申請したら通ってしまった。その期限が2月いっぱいで、ださないとまずいのだ。ところがだ、4月から文科長になって授業が減り、万葉の授業はなくなってしまった。非常勤で行っていた明治の授業も辞めざるを得なくなった。結局、使わないテキストになってしまつたのだが、それでも作った方がいい。だから、今必死に原稿書いている。こんな時評書いている場合じゃないのだ。

でも、原稿書いている場合でもない。先週同僚が愛知県の方の大学に移ることになったと言ってきた。日本語・日本文学専攻に衝撃が走った。ここ3年ほど毎年一人ずつ辞めていき、後任は一人しか取ってくれていない。時節柄人件費削減や、文学関係の教員を減らす流れがあって、たぶん次の後任も難しい。わが専攻はどうなることやら。いずれにしろ、残ったスタッフで何とかやっていくしかない。それにしても大変な時に私は科長になってしまった。

というわけで、成績をつけなきゃいけない、原稿も書かなきゃいけない、来年の教員どうするんだと、いろいろある中でホリエモン逮捕のニュースが飛び込んできた。こういうこともあるんだと、ライブドアの家宅捜索の時に思ったが、あれだけもてはやされている時代の寵児をしっかりとマークして捕まえようとしていた連中がいたことに、この世の中、それほど悪くはないとも思った次第だが、どうもこんなに大げさな捜査が入るのは、検察に一罰百戒で世直しをしてやろうなどというパフォーマンスがあるからかも知れない。そうだとすると、よけいなお世話であまり褒められたものでもない。

私だってミーハー的にホリエモンはたいしたもんだと思ったこともなかったわけではない。こういう時代の人物評価は相対的なもので、比較される誰かと対照されることで、その評価が決まる。例えば、フジテレビの日枝会長とか、亀井議員とか、楽天の三木谷やらのああいうもっとうさんくさそうな連中との比較で登場してきたときには、誰だってホリエモンの肩をもったろう。

その意味で、うさんくさいとは思いつつも、こういうのがいたほうが世の中面白いよな、くらいのノリで見ていたのだが、さすがに、逮捕まで行くとは、驚いた。コメンテーターのいろんな評も面白かったが、一番いいと思ったのが、作家の石田衣良の言葉。「ホリエモンは渋滞している高速道路の路肩を平気で飛ばして走っていく奴で、路肩を走れないみんなが、かっこいいとか許せないとかいろいろ言っていたようなものだ」というコメント。なるほど、私も若いときには路肩を走ったことがあるが、さすがに今は走らない。あれもめったにつかまらない。けれど、時々捕まる。猪口新人議員のことば、「スピードあってよかったがスピード違反で捕まってしまった」。ちょっと違うとは思うが、そんな感じか。ちなみに私は飛ばす方だが、スピード違反で捕まったことは一度もない。

 「ものづくりに帰れ」とか、「世の中金でかえないものもある」、ということばが新聞の見出しやコメンテーターが口を揃えて言っているが、つまらない。何をいまさら、ていう感じだろう。そんなことわかっていてみんなホリエモンをもてはやしたのでは。ものつくりの大切さを大事にする社会を壊してしまっておいて今更何を言う、その恩恵をお前達が一番受けているだろう、というのと、金で買えないものがあるなんて言うやつも、だいたい金は持っている、ということがみんなわかっている。

 「世の中金がすべてだ」というホリエモンのことばを、そういう言い方もありだ、そんなに上手くはいかないが、くらいの感じでみんな受け止めていた、ということを理解しない奴がこんなにたくさんいたとは驚きだ。金がすべてでないことは誰だってわかっている。が、もうちょっと金があれば解決できることがたくさんあるということも誰も切実に分かっている。時には、それで死ななきゃならない理不尽さがあるということもだ。

そういう苦労を知っているものが「世の中金じゃない」なんて、人に向かってなかなかいえるもんじゃない。ほとんど宗教と間違えられるんじゃないかと思ってしまうだろう。だとしたら「世の中金だよなあ」ととりあえず言っておく方が無難だというものだ。そういうニュアンスが分からないで(ホリエモンがどこまでそういうニュアンスを持っていたかはわからないが)、今頃「世の中金じゃない」という言葉がまことしやかに言われるのは、情けない。

8世紀のことが主に描かれている『日本霊異記』をつい持ち出したくなるのだが、説話の中に「スダラクの銭」というのが出てくる。お寺の基金で、寺はこれを運用して利益を出し、仏教を広める資金に使っていたらしい。運用とは要するに貸し出して利息を取ることである。だから、この銭を借りたが返さなかったために、仏罰が下るという話がある。あるいは、信心深い人には、この銭が突如現れる。考えてみれば、仏教も金貸しをして、つまり、ファンドを運用していたわけで、その運用に差し障りがあれば仏罰というようにモラルを定めているのだ。『日本霊異記』では、金の貸し借りは悪ではない。過剰に取り立てたり、返さない奴は悪である。この基準から言えば、ホリエモンは8世紀でも仏罰が下るだろうと思う。何事もやりすぎはいけないのだ。

要するにそういうことなのだ。ホリエモンは過剰すぎただけなのだ。しかし、実は、われわれの社会のモラルは、この過剰になってしまうかならないかの微妙なところで、かろうじて成り立っているのである。きちんとした普遍的な基準があって、モラルが成立しているわけではない。少なくとも、経済的な行為に関してはそうである。だから、モラルの基準は時代によって動いていく。それは、今あるモラルなど古びるから信用しないというホリエモンのような若者をたえず生んでいく。それをいい社会とは思わないが、しかしそういう社会を受け入れて生きているという事実から出発しないと、どんな立派な事を言っても、何も言ったことにならない。

ホリエモンの悪は、ほとんどのものが専門家から解説されないと理解できないルールを破ったことにあるらしい。自分(会社)の価値は他者との関係で決まるが、それを自分たちだけで勝手に決めて、つまり自己増殖させて、株を高く売り金を儲けていたということらしい。でも、資本主義社会の価値の増やし方は、自己増殖的な面がある。だから常にバブルが起こる。みんなが一斉にやればバブルとなり、一人だけ突出すると違反になる。世の中そういうものだ。とりあえずはルールがあるわけで、ルールがあるということは、それが破られれば被害者が出るわけで、その意味では、逮捕は当然なのだろう。ホリエモン、そんなに世の中甘くはないよ、というところだろうか。「ホリエモンは面白いけどうさんくさい」というのは倉田真由美のコメントだった。その面白さに期待していた分だけ、やはり今度のことは驚いた。