対話型と内話型2017/04/26 00:50

 久しぶりですが、忘れられるのも何なので、ブログを書きます。
 新学期も始まり、連休近くになり、ようやく一息というところでしょうか。
相変わらず忙しいのですが、ここ二年ほど煩っている前立腺の調子が悪く、憂鬱な日々を送っているところです。肥大ではあるのですが、前立腺炎が慢性化したらしく、尿意のような違和感がとれないでいます。なかなか治りにくいらしく、あちこちの医者を渡り歩くので、典型的なドクターショッピングの病と言われているそうです。私の場合そこまではひどくないのですが。

 この歳になると、どこか悪いところが出てくるのは当たり前で、仕方ないと思ってますが、歳を取るということは、非健常者になることだということが実感としてよくわかります。せめて頭だけはしっかりさせないと、仕事に差し障りがでるので、何とかしなきゃと思うのですが、生来、仕事以外であまり人としゃべらない性質なので、まずいなと思っています。

 亡くなった弟が植物状態になったとき、意識があるかどうかではなくて、人と意思を交わせないから植物状態という、と医者の説明を聞いた時、そうか、病気でなくても植物状態はいつでもなり得るのとわかりました。半植物状態で生活している人はけっこういます。たまに私もなります。頭のなかではたくさん言葉が飛び交っているのに、その言葉が他者に発信されないままのときってけっこうあります。そういうときの、自分はこんなに言葉を発しているから大丈夫だという自信がどうやら一番危ないようです。

 私の最近の仕事は歌の掛け合いの研究ですが、歌の掛け合いは基本的に頭に浮かんだことは間髪をいれず声として相手(他者)に向かって発信されます。が、相手が神の場合、というより、超越的な他者、自分でも可、の場合、この対話は内話になるはずです。つまり掛け合いにはなりません。神との対話は声による掛け合いにはならない、というのが、私の掛け合い論のスタンスなのですが、それはそれとして、言葉の発信には、掛け合いのような対話型と、神との対話のような内話型とあると考えます。

 さて、人間が植物状態になったとき、それは対話型のコミニュケーションを失ったということになります。が、内話型は失っているかどうかわからないのです。頭のなかでだれかとしゃべっていても、外部にそれが気づかれなければ、その人は植物状態と変わらないとみえてしまうのです。怖い話です。生きているとはどういうことなのでしょう。

 掛け合いの研究をしながら、私は、生きているという実感をより強く享受しているのは、やっぱり対話型だろうと思いました。しかし、内話型もまた生きていることにとって意味のないはずはありません。両方必要ということでしょう。が、言えることは、対話型の人は、植物状態にはならないだろうなあ、ということと、内話型はなりやすいし、もう、少しばかりなってるかもしれない、ということです。これは、私のことを例にして言ってます。ちなみに、対話型はうちの奥さんです。よくしゃべります。私よりぜったい長生きすると思います。

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