私たちは幸せなのか2017/02/06 23:28

 2017年になって、初めてのブログである。チビが亡くなって、なんとなく一つ何かが足りないような感覚がぬけないのは、やはり喪失感というものなのだろう。ここ数年喪失感ばかり味わってきたので少しは慣れたかと思っていたが、なかなかなれるものでもないらしい。

 学校のほうは授業も終わって一段落といったところだが、入試やもろもろの会議で忙しい。特に採点が大変で、まずはこれに集中しなくては。1月に短歌の五七調は日本固有のものかというテーマの原稿を書き上げたが、2月には現代短歌の原稿2本を書かなきゃいけない。その一つが、ある歌人の歌集の栞の文章で、じつは歌集の栞を書くのは初めてで、けっこう緊張している。

 本業のほうも、今年何とか歌垣の本を出したいと思っているのだが、思っているだけで何もすすんでいない。歌垣の論はかなり書いているのだが、やはり一冊の本にするとなると、全体を通して一本芯を通さなくてはいけない。その芯がなかなか確かな論理として構築できていないのだ。まずは論理の熟成である。

 社会への関心としては、何といってもトランプ劇場だろう。予想されたこととはいえ、お騒がせへの期待は裏切っていない。選挙のときには実現出来そうにもないのに威勢のいいことを言い、当選したらなにも言わなくなってしまうのが政治家の常だが、トランプは大統領になっても威勢がいい。が、何処まで続くかだ。やはり世界は自分の思い通りにはいかないだろう。そういう時どうするのか。そこが見ものであるが、こんなのんきなことを言ってられるのも、難民や移民の問題にわれ関せずを決め込んでいる日本に住んでいるからだ。

 テレビで入国が許可され抱き合って喜ぶ中東の人たちを見て、アメリカに入国することがこんなにも嬉しいことなのか、改めて思い知らされた。今日本の学生はかつてほど留学したがらないという。就活に不利というのもあるが、あえて日本という共同体から離れて外国で勉強するメリットはないということだろう。1%が99%を支配する国になってしまったアメリカに日本の若者が夢を抱かないのは当然だ。がそれでもアメリカをめざす人たちは、それだけ自分の国で生きることが困難だからだ。貧困や戦争で生き残るのに必死な人々にとってアメリカはまだ希望の国なのだ。そこはやはりアメリカはたいしたものだと思う。

 その意味では、「YOUはなにしに日本へ」なんて外国人にインタビューしていられる日本はつくづく幸せなのだと思う。

 韓国ドラマ鑑賞は相変わらずだが、今観ているのが、傑作と評判の高い「ジャイアント」である。韓国の高度成長期である1970~80年代を背景にしたドラマだが、評判通り見応えがある。高度成長に合わせて成り上がる者たちの愛憎・裏切り・復讐といった韓流ドラマ定番の要素がてんこ盛りなのであるが、やはり魅入られるのは、人間と人間との欲望や情愛がむき出しのままぶつかり合うところだろう。そのぶつかりを緩和する文化的気質を韓国人は日本人のように持っていない。悲しいときに微笑んだりして感情を押し殺す文化とは無縁なのだ。

 しかも富と権力を握れば法を容易に越えられる前近代の社会性はまだ健在だ。従って、財閥と政治家はいつもドラマの中心になる。それがドラマの虚構の世界でないことは、今度の大統領のスキャンダルで明らかになった。

 「ジャイアント」は権力欲に取り憑かれたモンスターのような男と彼に両親を殺され復讐を誓う家族の物語だが、なんといっても悪役のチョン・ボソクの演技が圧倒的で、このドラマは彼の存在感に拠って支えられているといってもいい。彼の、目をむきだしいまにも血管が切れそうな激高の顔は他のだれも真似ができないだろう。そこには、日本的な中間表情などというものはない。感情が常に剥き出しなのだ。まさに韓国を代表する俳優である。

 大陸的な感情と感情とがぶつかり合うドラマを、感情をあまり表にださない日本人がハラハラしながら観ている。わたしたちはドラマの中での主人公達の激しい感情の発露が、韓国の厳しい現実を背景にリアリティがあることを知っている。彼らのような人間を描けないわたしたちはつくづく幸せなのだと思う。