キャリア教育の難しさ2016/04/17 18:56

 熊本地震、改めて日本で住むには地震を覚悟しなくてはいけないことを確認した。被災した人たちが早くもとに戻れるよう祈るばかりである。それにしても、大地震のペースが速すぎる。東京だっていつくるかわからない。奥さんが同年代の友達と美術館に行って食事をしたとき、その友達は、災害で帰れないときに必要なグッズを一通り持ち歩いていて、そのことに驚いたといいう。その女性の話では、いつもは折りたたみのヘルメットをもちあるいているのだが、今日は持って来ていないという。そこまで準備している人もいるのだ。

 ブログも久しぶりである。新学期が始まり、授業も始まった。今年度から学科長でなくなったので、授業の数が増えた。だが、私が担当の「古典文学史」の受講者数が少なく閉講になってしまった。もう一つの「近現代文学史」とどちらか選択なのだが、みんな近現代にいってしまった。といっても、わが学科の「日本文学」のコースは30名程度。この数では、どっちにしろ授業はなりたたない。危機的である。授業がなりたたなくなる、というより、学科もしくは勤め先の短大そのものが危機的である。私も、必死にどうしたら学生が集められるのか、知恵を絞っているのだが名案が浮かぶわけもない。

 短大苦戦の大きな原因は就職である。短大で生き残っているのは、ほとんどが資格系で、うちのような文系は、すでに希少価値になりつつある。四大でも文学系は苦戦している。ましてや短大はもっと深刻、ということである。短大志望の受験生の関心はやはり就職である。経済的な理由で早く社会にでるために短大を希望する学生が増えているのである。従って、就職に強い、というところが人気が出る。文系の短大学科として、私のところは内定率が低いわけではない。けっこう頑張っている。が、それでも、資格系や家政系に比べれば低い。

 何故低いのか、大きな理由は、激烈な就活競争に向かない学生が少なからずいるからである。今、企業(社会がといってもいいが)学生に求める能力のトップは、コミュニケーションの能力である。就活の講習で学生は必ずこれを言われる。このコミュニケーション能力とは、具体的には、初対面の人に憶せず自分の意見が言えたり、接客が出来る(特に女性の場合)人のことである。見知っている人や気心が知れている人に意見が言えてもそれはコミュニケーションの能力とは言えない。

 新学期の私のゼミに11人学生が受講し自己紹介してもらったが、そのうち三人が、私は人見知りで話すのが苦手です、と話した。つまり、企業が求めるコミュニケーションの苦手な学生なのであるが、人見知りはきっともっといる。かくいう私も人見知りである。文系は特に多い。人見知りであることと、文系を志望することとは比例している、というのが私の感想である。

 この人見知りの学生を、初対面でも憶せずに話せる学生にどう変身させられるか、これが、今われわれに課せられている、内定率を上げるための課題であり(これが出来なければ潰れる)、そのために、グループワークとか、アクティブラーニングとか、とにかく、学生の発言する機会の多い授業をいくつか作ったりと努力しているのだ。

 が、人見知りは、性格であり、また、それまでの生き方と関係している。従って、本人によほど自分を作り変えるくらいの積極性がないと直るものではない。そして、その人見知りを何とか克服して就活に挑ませる課題を負った私自身が、別に人見知りでもいいじゃない、と思っているところがある。

 営業向けのスマイルや会話ができなければ、生きる資格がないとまではいわないまでもかなり不利な条件で社会に出て行かざるを得ない今の社会そのものに不審がある。これも、職業がサービス業に特化しつつある現在の日本の資本主義の良くない面だ。多少の人見知りでも普通に生きて行けるようなまっとうな社会にならないものか。人見知りの多い学生たちを教えながらいつもそう思うのである。

 が、いくら社会の悪口を言っても、問題が解決するわけではない。人見知りの性格を直せとまでは言わない。ただ、演技でいいから初対面の人とそこそこ対話してその場を切り抜けるくらいのことは身につけた方が楽に生きられるよ、とは言っているつもりだ。

 近藤康太郎『おいしい資本主義』という本がある。最近読んだなかでは面白かった。朝日新聞の記者で、ライターとしても活躍している筆者が、長崎の諫早という田舎の支局に赴任して、記者の仕事を続けるかたわら、会社がいつ潰れてもいいように自分の食い扶持であるお米を仕事の合間に作ってしまおう、という、ゆるい感じのルポルタージュである。

 脱サラで農業をするわけではなく、ただ、いつ会社を首になっても慌てないように農業を片手間にやる、というある意味でいい加減な「オルタナティブ農業」「なんちゃって農業」と本人は呼ぶ。資本主義に対する疑念がたくさん語られている本だが、その解決が、資本主義の流れから、例えば、成長こそすべてちか、コミュニケーション万能とか、そういう価値観からちょっと逃げ出してみる(本人は「ばっくれる」と言う)ことで、それが大事だというのだ。資本主義を否定するのではなく、資本主義の流れにのっている連中の価値基準に、簡単には乗らない姿勢、それが片手間農業ということだというのである。

 つまり、自分の生き方(ここでは仕事)をある価値基準に全部落とし込むな、いい加減な副業でもいいし、首になったときのために資格や手に職を持つとかそういうものでもいいだろうし、要するに、リストラされても、いい仕事が見つからなくても、しぶとく、賢く生きる方法はあるだろう、そういう生き方をしようよ、という本だ。
 
 こういう人を首にしない朝日新聞は太っ腹だと感心するが、ともかくも、人見知りでもいいじゃない、人と喋らずにすむ仕事を見つけりゃいいじゃない、という発想で生きろ、とすすめる本である。私もこの発想は大賛成である。

 学校で就活支援の会議で、私が、みんななんで東京にこだわって職を探すのだろう。地方にだって立派な企業はいくらでもあるし、農業だってあるだろう。地方で就職する、という選択肢がもっとあってもいいのじゃないか、と言ったところ、親が承知しないでしょう。娘を都心の大学に入れたのは、東京で職を見つけるためで、実家を離れて地方に行くなんていったら親は大反対します、と言われた。それなら、地方から東京に出て来た学生だって同じじゃないかと言いたかったが、結局、東京で働きたいというその発想には多少の地方蔑視が入っているのだ。

 生き方は多様なはずなのに、なんで就活のときにその生き方の多様性が忘れられてしまうのか。結局私の不満はそこにある。実にたくさんの企業があるが、就活の時の学生に求められる価値観や能力は、ほぼみな同じである。多様な価値観を持つものとあっても、求める基準は同じなのだ。つまり、生き方の多様性という楽しさや緩さを学生は封印して、第一位のコミュニケーション能力を身につけた、いつでも笑顔が作れる人間として、社会に出て行くのだ。

 この現状をとりあえず私は受け入れている。受け入れなければキャリア教育はなりたたないからだ。受け入れつつ、人間には多様な生き方があるということを伝えている。一年後期の必修に「キャリアデザイン演習」があり、その授業の最後は、一年を全員集めて、各クラスの教員に、自分の就活失敗談を話してもらう。どの教員もすんなり教員になれたわけではないし、けっこう苦労しているものもいる。ある教員は、リストラされた経験を持っている。つまり、失敗したり挫折しても、あきらめなきゃなんとかなるものだ、という話をしてもらう。結局、学生は、この最後の話が一番役に立ったと感想を言う。学生もよくわかっているのである。