トンデモな宇宙論2015/08/08 00:03

 ようやく夏休み。といっても19日から中国調査なので、明日から山小屋で10日ほどこもって仕事というところだ。7日まで毎日出校。雑務をこなしていた。8月後半は中国なので、夏の宿題をとにかく片付けるため。31日に帰る予定だが、9月に入ったら仕事。私は、大学の第三者評価を受ける側の責任者で、その準備の会議をこの夏にやらなくてはいけない。会議がとにかく多い。

 山小屋では橋本裕之著『震災と芸能』という本の書評を書く予定。読んでみたが、これは引き受けるべきではなかったと後悔。震災後の岩手沿岸地域における神楽復興に取り組んだ著者の報告書といった本である。書評には重たい本である。ただ、私の関心と響き合うところが多かった。私は震災後の復興に何も手助けが出来なかった者だが、神楽に関心を抱くもののひとりとして、神楽が地域のコミュニティ作りや、被災者の心の支えとなり得ることを知ってうれしかった。書評は難しそうだが、そういったことをきちんと書いて置くべきだろうというのが、読後の感想である。

 読書で言えば、青木薫『宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論』は面白かった。筆者は、われわれのこの宇宙は、実はローカルな宇宙なのだというのである。宇宙は一つではない。最新の理論で数えると宇宙の数は10の500乗をくだらないという。つまり、その無限にある宇宙の中でわれわれはたまたま人間が存在できる条件を持つ宇宙にいるだけである、ということらしい。何故宇宙はこのような宇宙なのか、という問の答えは、われわれが存在可能な宇宙に存在しているだけであって、このような宇宙であるのはたまたまである、ということだ。つまり、われわれもたまたま存在しているだけである、ということになる。

 われわれが存在しているからこの宇宙はある、と人間原理を持ち込む物理学者もいるとのこと。が、こういう考えは量子力学ではすでに言われていることでもある。量子力学では、極めて小さい原子の世界では、観察者の影響を受けない対象を観察することは出来ない、という理論がある。これと同じことで、われわれに観察されているこの宇宙は、観察されることでたまたま無数にある宇宙から選択されているということかも知れない、ということだ。なにやらわけがわからなくなるが、言えることは、たまたま観察出来る宇宙の内部にわれわれはいるだけであって、観察出来ない宇宙は無数にある、ということだ。その意味でこの宇宙はローカルなのである。

 宇宙の神秘さ、その絶対的な大きさは、宇宙が観察出来ないからであった。が、われわれの宇宙は観察出来るからわれわれに現前している宇宙に過ぎないのであって、宇宙の向こうには観察出来ない、たぶん人間の住んでいない宇宙が無数にある。ということは、も
われわれはこの宇宙を神秘的なものとしてイメージすることができなくなる?ということも考えられる。いずれにしろ、唯一絶対なものとしての宇宙は死語になる。

 もし、宮沢賢治がこの理論を知ったなら、宮沢賢治はあのような詩や童話を書いただろうか。むろん、無数の観察出来ない宇宙があることは確かなのだから、神秘である対象がなくなったわけではない。でも、新しもの好きの賢治が影響を受けないはずはない。

 それにしても素粒子や宇宙を扱う理論というのはすごいものである。世俗のいい加減なトンデモ理論を軽々と超えるトンデモ的世界を描く。文学理論もこうであったら面白いのにと思うのだが。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://okanokabe.asablo.jp/blog/2015/08/08/7727702/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。