ジブリ美術館に行く2015/07/02 00:00

 今年はいったいどういう年なのだろう。同年代の知人の死の知らせが相次ぐ。今年の初めに西條勉が亡くなった。そして先日、丸山隆司逝去の報せである。万葉の挽歌ではないが「およづれごと」かと思ったほどである。西條氏も丸山氏も同年代。早すぎる死である。特に丸山氏は、30年ほど前からの古代文学の研究仲間であり、最近も彼の『海ゆかば』の著作を引用しながら慰霊の論を書いたばかりだ。彼は札幌に移ってしまったので、なかなか会えなかったのだが、メールでのやりとりはしていた。ご冥福を祈るばかりである。

 福島泰樹から『歌人の死』という本が届いた。冒頭に短歌評論家は何故こんなにも早死にするのかと書いてある。小笠原賢二のことを書いているのだが、一瞬どきっとした。私も一応短歌評論家なのだ。同世代の死が相次ぐとそれなりの覚悟もしておかなくてはという気持ちになる。

 先週の土曜日に学生たちと一緒にジブリ美術館に行った。行きたいと常々思っていながらなかなか機会がなく、やっと行けたというところである。私は授業で「アニメの物語学」という科目を担当していて、ジブリのアニメを扱っている。その意味ではジブリ美術館は見ておかなければならないところなのである。手配をしてくれた助手さんたちに感謝である。

 今日の授業で「となりのトトロ」を解説したばかりだ。このアニメの私の読み解き方は、何故サツキとメイの二人が主人公なのか、を解き明かすことである。答えは、メイは無邪気にお化け(自然)に出会える子ども、サツキは、出会えるぎりぎりの年齢。この二人を主人公にすることで、成長していく少女の時間差を描く事が出来たのである。

 その効果は最後の場面に表れる。母親の入院する病院から電報が届き、サツキは母に何かあったのではないかと必死に父に連絡をとろうとする。ここでサツキは精一杯大人として振る舞う。が、メイは何をしていいか分からずサツキにまとわりつき、母に会いたいとぐずるだけである。サツキはメイを叱りメイを自分の世界から切り離す。メイは母の元へ行こうとするが迷子になる。

 このとき、大人になろうと無理をしているサツキが切り離したのは、自分のなかの子どもの領域(メイ=自然の側)である。迷子になったのはメイだが、実はサツキ自身でもあるのだ。母が不在のこの姉妹は助け合って生きた来た。が、ここで姉妹は離ればなれになる。それは、大人として振る舞うサツキが自分のなかの子ども(メイであり自然)を失うことであった。自分にとっての大事なものの喪失を知ったサツキは必死にメイを探す。このとき、その失われたものを取り戻してくれたのがトトロである。トトロは、サツキが切り離そうとしたメイの側にある、原始的自然そのものである。単純化すれば、サツキは切り離そうとしたものによって救われたのだ。

 そうやってサツキは成長していくのである。ここには、自然との乖離に苦しみながら成長していく通過儀礼の物語はない。自然の分離に不安を覚えながら、その自然に救われ、やがてその自然と穏やかに折り合うような、ゆったりとした通過儀礼の物語がある。こんな風に自然に包まれながら成長できたらいいなと誰もが思うような成長譚なのである。

 宮崎アニメは分析しがいがある。それだけ読みしろが多いということだが、「となりのトトロ」もなかなかである。

やっぱりSF2015/07/12 11:41

 暑い日々が続く。今年から、勤め先の市民講座で「万葉集」の他に「遠野物語」の講座を増やした。これがけっこう人気がある。とりあえず、「注釈遠野物語」をテキストに最初から読んでいるのだが、二話の、早池峰山、六甲牛山、石神山を領する女神の鎮座由来譚を解説した。

 解説といってもほとんど三浦さんの『村落伝承論』をそのまま引用しただけである。この由来譚は、三人姉妹の末の娘が、長姉の胸に降りた霊華を盗んで自分の胸に置き、早池峰の女神におさまったという話である。が、実は、初版本の話では、この盗みが夢の中での行為ともとれるように書かれているのだが、最初の草稿である毛筆本には、夢のことは出てこずに、現実に末の娘が盗んだというように語られている。

 三浦さんは、毛筆本は佐々木喜善の話のままであって、盗んで早池峰を得たという話に柳田は倫理上の問題を認め、夢の記述を書き加えたのではないかと述べている。つまり、「遠野物語」は佐佐木喜善の語ったことを一字一句加減せずに書いたという柳田の序の文章は文字通り受け取れないということの証拠となるところである。

 ところで、講義のあとに質問に来た人がいて、遠野三山の近くの神社の祭神を調べたことがあるが、いずれも、大祓の祝詞に祝詞に出てくるせおりつ姫、はやあきつ姫などの神が祭られていて、これらの女神はもともとの三山信仰に由来するのか、という質問であった。この質問、私には答えようがなかったので、可能性としては、女神が三山の神であるという信仰がまずあって、最初は名前なき神だったが、後から記紀や祝詞の神名からとってきた名前を付けたと考えるのがいいのではないかととりあえずは答えた。それにしても、市民講座には、かなりマニアックに調べている人がいるので生半可な講義は出来ない。大変である。

 「歌物語」というテーマで短歌評論を書き上げた。古典論ではなく現代短歌評論として書くので少々手間取ったが、何とか書き上げた。結局は、虚構の問題である。物語という虚構と歌という虚構にはレベル差がある。その差を利用して一つの作品にするのが「歌物語」である。その時の、歌の虚構とは、一人称的に展開する「私」の世界だが、同時にその「私」は共同体的な「私」でもある、というのが論旨である。この「私」に他者である共同的なものが融合する、という一人称的な虚構のあり方は、物語にはない。物語では、一人称は三人称と最初から置き換え可能であるからだ。

 この問題、父の死を歌って新人賞を受賞した歌人のその授賞式に、死んだはずの父親があらわれ、騒ぎとなった歌壇の出来事があり、それ以来「短歌における虚構とは何か」という論争が勃発しているのだか、そのことを考える一つのヒントになるのではないかと思っている。

 体調が少しは回復気味で、通勤電車で眠らなくてすむようになった。そこで、通勤読書が復活。SFを読んでいる。古典として、フィリップ・K・ディック『時は乱れて』、レイ・ブラッドベリ『火星年代記』。さすがに古典ぽいが面白い。私としては、フイリップ・ホセ・ファマーの『リバーワールド』シリーズを再度読みたいと思っているのだが、ファーマーの本はほとんど本屋にはない。中古でも全巻は揃わないようだ。この傑作が手に入らないのは残念である。

 神永学『革命のリベリオン』第二部がでたので読んだが、だんだんと登場人物がマンガ的になっていくのがつまらない。フレドリック・T・オルソン『人類暗号』上下。いったいなんだろうと思いながら読んだが、前半の緊張度にくらべて最後がつまらない。

 何故SFが好きなのかと時々考えるのだが、やはり虚構が最初からお膳立てされているからだと思われる。いいかえれば虚構の完成度が最初から問われるのがSFであり、その意味で、作者の想像力、知識の程度がかなり必要とされる分野であるということだ。読み手は、その技量を愉しむことも出来る。日本のオタクはSFファンからから始まっているが、アニメも含めて、日本のSFもなかなかのものである。