カモシカと対面2015/05/14 00:12

 学会での発表が終わり、今年の前半が終わった、という感じでやや力が抜けた。とりあえず、さしせまった原稿もなく、のんびりとは行かないが、授業の方に集中出来る。母の事故の事後処理はまだ残っているが、ようやく香典返しもすみ、後は、遺品の整理だけということになった。が、これが一番の難問で、考えると気が重い。母が40年住んだ家の家財を総て処分しなくてはならない。当然業者に頼むことになるが、その交渉を含めて宇都宮に通うことになりそうだ。

 連休は学会発表の準備で、山小屋で仕事であった。今年は春が早い。そしてあっというまに初夏になった。どうも四季の中の春が短くなりつつあるようだ。いよいよ日本の亜熱帯化が進み始めているようだ。そのせいかどうか、カモシカが山小屋のすぐ近くに現れた。普通の鹿は山小屋の庭が通り道なのでしょっちゅう見ているが、カモシカは初めてである。カモシカは特別天然記念物で、国宝みたいな動物である。さすがにカモシカと正面きって向き合ったときは感動ものであった。カモシカは人の行けない高山に一匹で行動する孤高の動物というイメージがあった。おいおいいいのか、こんなところにいてと思わず問いかけた。

 連休中に二冊の本を読んだ。一つは『遊ぶ神仏』(辻惟雄 ちくま学芸文庫)『先送りは生物学的に正しい』(宮竹貴久 講談社α新書)である。『遊ぶ神仏』は副題の「江戸の宗教美術とアニミズム」に惹かれて読んでみた。美術についてはそれほどの知識はないが、そこそこは知っている。が、この本で教えられたのが天龍道人源道の仏画である。長野の飯田にある青林山清玄寺のいたるところがこの人の絵画で埋め尽くされているという。特に「釈迦成道図」がすごい。この仏画は普通ではない。特に着物の襞の描き方が尋常ではない。この絵を発見しただけてもこの本を読む価値はあった。

 『先送りは生物学的に正しい』も面白かった。BSでやっている久米書店の中で紹介された本なので読んで見たのだが、これはおすすめである。外敵に襲われると死んだふりをする生物がいることは知られているが、その死んだふりが弱肉強食の生物界の中で生きき残るめの合理的な方法であることを科学的に実証したことが主に書かれている。が、それだけでなく、擬態とか寄生とか、そういった、力と力で戦うのではなく相手をだます戦術というのは、生き残るための大事な戦略であるということが、人間にも適応できる方法として説かれているのがミソなのだ。

 むろん、人と上手くつきあえないコミュニケーションの苦手な女子大生に「死んだふり」しろとは言えない。だが、どうみても戦うのには向いていない学生に、自立して戦えというのはなんか違うといつも思っていた。この本を読んで私の違和感は間違ってなかったと確認出来た。べつに死んだふりすることはないが、危ないと思ったら、とりあえずじっとしていて様子見、というのもありだということである。「寄生」は生物にとって極めて重要な戦略であり、そもそも寄生ということがなかったら、人類の進化もなかったという。この「進化」も、実は、原語の正確な訳は「変化」なのであって、日本人はこれを「進化」と訳してしまつた。それが日本ではひとり歩きしたのだという。つまり、環境の激変に進化したものが生き残るということではなくて、変化することでその激変に適応出来た種が生き残る、ということなのだ。

 例えば、環境の変化に対して生き残る組織と潰れる組織の違いは、その組織の中に、普段は何にもしないでぶらぶらしている個体がいるかどうかだという。変化に対応するということは、自分が多様になるということだ。ところが、その組織が全員有能で自立してはたらいていたら、外敵が来たときみんな一斉に同じ方向に走り出す。それで、全員が食べられて組織は全滅する。だが、ふだんなにもしないでぶらぶしているものがいると、その組織は、危機的状況の時に全員が一斉に動けないのでバラバラに動く。そのことで食べられないで生き残る確率が増えるのだという。

 つまり、人間の組織でも、仕事が出来ない奴を最低限は置いておかないと危機的状況の時に全滅しかねないと言う話で、仕事が出来ない人にはありがたい話である。だが、これも限度の問題である。私は管理職なので、仕事が出来ない奴はいてもいいが増えると困る。ただ、その私が仕事の出来ない奴だったりして、というのは、ない話ではないが。

南三陸を訪れる2015/05/31 17:14

 先週の土日(23、24日)は、誘われて平泉の中尊寺、南三陸を旅した。中尊寺は二度目だが、金色堂を覆っていた旧覆堂を見たかった。覆い堂の起源は諸説あるようだが、金色堂が建ってからすぐに鎌倉幕府によって建てられたという説がある。理由は、藤原四代の遺体(四代目は首のみ)を納めた金色堂の金色は、怨霊の光だとみなされたからだという。つまり、金色堂の保護のために建てられた訳ではなく、その金色の光を防ぐ目的で建てられたということだ。この説支持したい。

 南三陸は始めてである。波伝谷町という津波が如何にも来そうな地名のところにある、慶明丸レストランで昼食をとった。このレストランのオーナーは震災で旦那さんを亡くした人で、流された自宅の跡地でこの小さな食堂を開業した。予約制だが、それはそれは豪勢な海鮮料理だった。慶明丸は所有していた船で、その船の浮きが一年後にアラスカでみつかり戻ったそうである。その浮きが店内に飾ってある。

 オーナーの奥さんに、津波に遭った高台の中学校を案内してもらった。海に近いとは言え、十五メートルの高さの高台に立つ中学校の一階まで波が来た。中学校は避難場所であったが、校庭に避難していた人たちの何人かは亡くなったという。奥さんは優れた語り部で、津波の様子をリアルに語ってくれた。その高台から海を見たが、かなり高く感じる。周囲は何もない開けた場所である。ここまで波が来るとは、地面が突如20メートル持ち上がったのと同じであるから、この世の終わりだのような光景だったに違いない、改めて、津波の怖さを実感した。奇跡の一本松にも立ち寄った。枯れてしまったのを剥製のように補強したものだが、それでも持ってあと10年だという。

 海岸に「タブノ木」という看板があった。タブノ木は照葉樹林。東北だが海岸沿いには照葉樹林があるということである。日本の照葉樹の分布は、海岸沿いにはかなり北の方まであるのである。実は、植物学者の宮脇昭が、照葉樹林の森によって防潮堤を作る運動を推進している。「森のプロジェクト」という。瓦礫を10メートね積み上げて、その上に照葉樹林を植える。松は津波でほとんど持って行かれたが、実は照葉樹はけっこう津波に耐えて残っている。根を深く広く這わしているので堅固なのである。瓦礫の土手の上に照葉樹の森を作れば、それだけで20メートル以上の防潮堤になる。コンクリートで作るより金もかからず環境的にもいい。が、復興計画はコンクリートの防潮堤を作る方向に向かっている。日本の政治家のレベルの低さはこういうところにも表れている。

 私の泊まった民宿は、南三陸の海岸にあって、そんなに高い所ではないが、それでも津波の被害に遭わなかった。どうもその地形によって被害の程度にもかなり差があったようだ。海岸沿いはほとんど工事中ばかりで、土砂を摘んだダンプばかりが行き交っている。そうとうな予算が使われていることがよくわかる。しかし、見る限り4年も経つのに何も出来ていない。

 南三陸の観光施設も整備されてきているようだ。私たちも、少しは観光のお役に立てたのかも知れない。写真は、津波にあった高台。写真の撮影地点まで津波が来た。つまり、右側に立っている人の高さまで津波が来たと言うこと