憑依には誰もかなわない2015/04/23 22:00

 ブログも久しぶりである。公私にわたって忙しく、なかなか暇が無い。15日に『短歌往来』に短歌評論の原稿を送って少し楽になったが、五月のアジア民族文化学会大会の準備でまた忙しい。案内やポスターの発送、ほとんど一人でやっている。そして、私も発表者の一人だ。その資料作りはこれからだが、中国語と格闘しなくてはならない。大変であるが、まあ、これも楽しみと言えば楽しみだ。

 去年調査した白族の観音会の調査報告だが、貴重な神懸かりの映像を公開出来る。なにしろ寒い晩山の上で徹夜して撮影したものだ。ただ、儀礼の背景となる「阿叱力(あじゃり)教」についての説明が難しい。もともとインド密教で、雲南に入り、すでに中国に伝わっていた密教や道教、地元のシャーマニズムと習合し、土着の民間信仰として発展した仏教である。大理国のときに国教として盛んになり白族に広がった。民間の宗教組織が担い手になっている。婦人組織の「蓮池会」がよく知られているが、私たちが調査した地域の宗教組織は、「媽媽会」と言う。

 この「媽媽会」の婦人たちが、お寺や廟に世話役として詰めていて、村人達の参拝の世話をしお経を唱えたりしている。この人たちも憑依の仕草をするが、一般の参拝客の婦人のなかで憑依する人たちもいる。この人たちは、巫病らしく、憑依を体験したあと、感受性が鋭くなり、「媽媽会」の世話役になっていくということなのだ。

 憑依を目の当たりにしていつも思うのだが、憑依というパフォーマンスは圧倒的だ。憑依を目の当たりにすると、誰もが何も言えなくなる。ただ、その現象を受け入れざるをえない。なすすべがない。憑依した当人をただ見守り当人が発する言葉を聴くだけだ。人間というのは不思議なものだ。それが脳の何らかの働きによると分かっているのに、神秘的に感じる。

 この神秘性への感覚と言葉の獲得とはたぶん繋がっている。憑依は言葉の限界を最初から突破している。言いかえれば言葉の無力をこれほど突きつけるパフォーマンスはない。憑依に言葉は伴うとしても、それは双方向的ではない。一方的にどのようにも解釈出来るものとしてただ示されるだけだ。

 圧倒的な憑依。双方向的な言葉のやりとりを一蹴する圧倒的パフォーマンス。私は一方で歌垣の歌の掛け合いという双方向的な言葉のやりとりが、何故、一人の言葉のパフォーマンス(和歌)の中に収まっていくのかいつも考えているのだが、結局、この憑依という圧倒的な言葉のあらわれの、形式的な再現なのではと思うようになった。そう思うことで、折口信夫の神懸かり発生説が何となく理解出来るような気がするのだ。まあ、今のことろ思いつきだが。