システム論か文明論か2015/01/13 00:28

 年末年始は山小屋に行っているので、ブログの更新はしていないかったが、さすがに長いこと更新していないのでどうかしたのかという問い合わせもあった。とくにいそがしいこともなかったのだが、いろいろあって、つい更新をさぼつていただけだ。

 山小屋は大雪で大変だった。雪かきの苦労というものを味わった。雪国の人の大変さを身をもって知った。鹿も食べ物がなくなり別荘地をうろついているし、カモシカにもあった。ベランダに野鳥のために向日葵の種を蒔いたらリスがやってきた。千客万来である。

 六日には東京に戻る。年末年始、体調に気を遣いながらもっぱら本を読んで過ごす。エンタメ系としては、伊坂幸太郎の本を三冊ほど読む。『ラッシュライフ』『フィッシュストーリー』『オーデュボンの祈り』。おすすめは『ラッシュライフ』。伊坂幸太郎の中ではこれが一番の傑作ではないか。『フィッシュストーリー』は短編集だが、小説の「フイッシュストーリー」はいまいち。が、映画の「フイッシュストーリー」はとても面白い。この映画の原作ということで読んだのだが、読まなきゃよかった。それから宮部みゆき『鳩笛草』。超能力者を描いたかなり前の短編集だが、さすがにうまい。プロの作家というのは宮部みゆきのような作家を言うのだと思う。

 他に、児童文学でメーテルリンク『青い鳥』、岡田淳『二分間の冒険』。来年度のワークショップでやる作品候補である。ムーミンで行こうということになつたが、著作権の問題がかなりむずかしいらしく断念した。そこで、他の候補ということで、いろいろ探しているのだが、結局『青い鳥』に決まった。ただ、個人的には『二分間の冒険』が好みである。『青い鳥』はけっこう難解である。読めば少しも児童文学ではない。が、著作権も問題なさそうだし、脚色のしがいもあるということで決まった。

 思想的な本では加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』、吉本隆明『反原発異論』。反原発に関わる対照的な本である。吉本は反原発に対して批判していたことはよく知られているが、この本はその発言をまとめたもの。科学技術というのは一度新しい技術を生み出したらそれを発展させていくしかない。それが人間というもののあり方であって、危険が伴うとすれば、それは、科学技術の高度な達成のなかで克服していくしかない。もし、リスクを恐れてその科学技術をやめるとすればそれ人間をやめるということだ、と吉本は主張する。

 加藤典洋は、3.11以前は吉本の主張に理解を示していたのだが、3.11以降、吉本の主張に違和感を覚えていく。つまり、原発が抱えるリスクは克服出来るものではないとする考え方をとるようになる。そのことは、人類の歴史、あるいは人間と自然との関係にとってどういう意味を持つのか、と文明論的にあるいは人間論として考察をすすめ、原発を止めるべきだということの原理論を構築していく。

 吉本さんの主張はわかりやすいし、いっさいぶれないなあと感心した。加藤典洋の本はとても面白かった。「有限」であることを認めよというのが加藤の主張の根幹にあるテーマだが、その考え方がとてもよくわかった。

 私は反原発運動に対しては距離を置いている。周囲はほとんど反原発を唱える人ばかりだが、原発に対して、その危険性は理解しているが、それならどうするのかと問われると、正直私自身はよくわからないというしかない。ただ、現状では、日本においては、原発は少なくしていかざるをえないだろう。ただ、徹底して無くすべきだというところまで言い切る理屈を私は持っていない。

 反原発の論理は二つに分けられると思う。それはシステム論と文明論である。システム論は、原発が危険なのは、原発を稼働するシステムそのものが国家的な規模における官僚機構のようなシステムに依存せざるを得ない、というものである。つまり、このシステムは、安全を徹底して追求する合理性や機能性を必ず欠如させる根本的な欠陥を持つ。かつての日本の政治家や軍人はアメリカとの戦争に誰もが勝てるなどと思っていなかったのに、それを止めることができなかつた。これは、日本の国家のシステムが戦争へという流れを作ってしまいそれに誰も逆らえなかった、ということである。先日のテレビで半藤一利が、アメリカとの戦争を決意したとき東条英機は家に帰って泣いたということを奥さんの話として語っていた。つまり、東条英機も戦争はしたくなかつたのに止められなかったということらしい。日本のこのシステムは自らを危険にさらす決定を止められないのである。

 原発がいつか事故を起こすかもしれないということがわかっていても、安全神話の流れにあるシステムに誰も逆らえなかった。それは、戦争への流れを誰にも止められなかったシステムと同じである。日本の原発はこのシステムによって作られ動いている。とすれば、日本のシステムが旧態依然として残っている以上、徹底して安全対策をとる、という合理的な判断が機能しないおそれが常につきまとう。従って、今の状態で原発を稼働させるのは危険である、というのがシステム論としての原発稼働反対の論理である。私はこのシステム論の立場に立つ。

 が、システム論は、システムが改善され徹底した安全対策がとられた場合はどうするのかと問われたとき、原発を拒絶する理由はなくなる。ただ、このシステムは、国家というシステムそのものでもあり、このシステムそのものが改善されるということは、革命でも起こらない限り無理だということも言える。その意味では、そのように問われることはたぶんないと言えるかも知れない。実は、左翼が反原発に関わる論拠はこの立場しかないと私は思っている。左翼の目標はあくまでも人間を疎外するシステムの変革にあるからだ。

 が、理屈の上ではシステム論は原発そのものを否定しているわけではない。もっと根本的に、原理論的に原発は存在してはならないという論点を立てるとすれば、文明論として原発の根拠を否定しなければならない。加藤典洋の本はこの文明論にたって、文明論的にすでに原発の必要性は否定出来るのだと説く。その主張は、「有限性」を人類は社会や未来のあり方に組み込むべきだということである。つまり、無限に発展しなくても別に良い、という立場こそが、現在必要な考え方なのだというのである。

 私は加藤の論におおむね賛成なのだが、ただ、核分裂という科学技術を発見した人類の好奇心、吉本的に言えば自然史的な動力を、鎮められるのだろうかという疑問は残る。確かに、そのような好奇心が生んだ科学技術がコントロールのきかないリスクを抱え込んでしまつたという危機に対して、今の所なすすべがない。が、それでも、新しい技術への好奇心を抑えようとしないのが人間ではないか。その人間性に対して、イデオロギー的に危ない科学技術には近づくな言えば、自由の抑圧である。人間の生き方の問題として、スローに生きようというだけなら、それは文明論としては弱い。ここは難しい問題であると思う。

 私は原発に対して文明論で説明するほどの哲学を持ち合わせていない。加藤典洋の論理はよく分かるのだが、それを反原発の論理に当て嵌めるほどに整理が出来ない。むろん、加藤典洋もそこからいきなり反原発という主張に結びつけているわけではないが、大筋として反原発の方向で論じてはいる。私は、文明論としては、まだよくわかっているわけではないということにしておきたいと思う。

短歌評論集刊行2015/01/31 00:23


久しぶりのブログである。

 私の短歌評論集『短歌の可能性』がながらみ書房から刊行。短歌の評論集としては三冊目になる。今回のは、私の専門である古代文学や中国少数民族の歌垣論なども使いながら、短歌という定型詩の可能性についての内容が多い。歌誌『月光』に連載していたものをまとめたものだが、歌集評というよりは、理屈っぽい論が多いのが特徴。

 私の母は87になるが、読書好きである。宇都宮の実家で弟と二人暮らし。弟は私より二歳下。パーキンソン病で今要介護3の状態にある。母が面倒をみている。私も心配で定期的に訪れているのだが、先週帰って、出来たばかりの本を置いていった。今日、母から電話が来て、本を最後まで読んだが難しくてよくわかんなかったと言ってきた。よく最後まで読んだものだと感心したが、短歌にあまり関心がない人が読んでも面白くはないだろうと思う。

 当然ながら、歌人に読んでもらいたいと思って出した本だ。一つのテーマにこだわって全体を論じた文章ではないから、論理的に全体が繋がっているわけではない。が、その時々の時代状況や、私の研究テーマなども織り込んであって、それなりに、短歌についてのあるテーマが浮かび上がるようにはなっているのだが、読者がそのように読むことができたかどうかは、これから、読後の声を聞くしかない。

 二年前に出した『神話と自然宗教』はほとんど反応がなかった。何人かの一般の人から読みやすく面白いと言ってはくれたが、研究者からの反応はあまりなかった。まあ、そんなものなのだろうと思う。中国雲南省の神話や祭祀を、フィールドワークの資料をもとにあれだけまとめて文章にたことは自分でもたいしたものだと思うが、何か、新しい文化人類学的方法論を提示したわけではないし、特に、文化論的に珍しい祭祀を発掘したわけでもない。日本との比較文化論もそんなに多くない。研究書というものでもない。むしろ、雲南の神話や祭祀のアニミズム的な世界観を、現代の状況と重ねながら、シンプルに論じただけである。その意味では、読み方の難しい本だったと思う。

 が、である。この本の中国語訳を中国で出版する計画が進行中である。順調にいけば来年には出る。結局、中国で出すべき本だったということかも知れない。中国の人たちがどのように読んでくれるのか、不安もあるが楽しみである。

 2月は、古事記の原稿依頼が来て大変そう。書けるかどうか不安。歌集評の原稿も抱え、そういえば大学の「百三十年史」の原稿も締め切りが過ぎた。ということで、相変わらすばたばたと過ごしている。チビと遊んでいるのが唯一の癒やしの時間である。写真は、知り合いが寒いだろうとチビに作ってくれた服を着ているところ。