卒業式の日にハンナ・アーレントを読み終える2014/03/17 01:20

 15日は卒業式であった。肌寒い天気であったが晴れたのがさいわいであった。本館前の僅かなスペースで記念撮影。歩道を通るひとがみな見ていく。都市の大学ならではの撮影風景である。夜は学科の送別会をかねた懇親会。銀座の和食レストランでの会食である。

 明日は、ディズニーホテルでの卒業パーティ。毎年繰り返される行事であるが、教員としては、一年で最もありがたいときである。とりあえず学生から感謝される日々だからだ。むろん、教員への感謝も卒業行事の一環なのだが、それでも感謝されれば嬉しくはある。

 ただ、一方で、進級や卒業が出来なくて退学を決意する学生もいる。こちらは教員にとって辛いが、ほとんどが出席不足で、いわゆる不本意入学の学生である。むろん、引き留めるケースもあるが、事情を聞いて、別の道を進みたいと意志を明確にしていれば、頑張れと励ます。

 ハンナ・アーレント『人間の条件』を読了。アーレントは読まなきゃと思っていたのだが、どうもなかなか機会がなく、今回ようやく読むことが出来た。内容についてはだいたい入門書で把握はしていたが、やはり、難解ではあっても実際に読んでみると面白い。ただ、いろいろと考えさせられた。

 一番、考え込んだのは、「労働」に対するアーレントの把握に、やや違和感を感じてしまうところだ。アーレントは、「労働」「仕事」「活動」と人間の活動のありかたを分別し、「労働」を下位に置く。「労働」とは、生存のために繰り返される行為であって、例えば召使いが主人の食事を作ったり身の回りの世話をするのと基本的に変わらないと言う。従って、そこには自由は存在しない。

 この「労働」観は、マルクスの批判でもある。マルクスは人間の価値を「労働」そのものに置いた。つまり、人間の存在価値は労働しその生産物を享受することにある。だが、人間の疎外は、その労働による生産を搾取され、あるいは交換価値として労働者に還元されないことによって生じると言っている。従って、マルクス主義は、労働者が労働を人間的な価値として取り戻すことに、革命の目的を置く。

 アーレントはそうではないと言う。人間の価値は「自由」にあり、その自由は「活動」にある。「活動」とは、多様な価値観を持つ他者との共同的な世界の構築のために言葉による関係を築く行為そのもののこと。つまり、多様な他者を許容していく社会の形成に参加するところに始めて「自由」は成立するのであつて「自由」は決して内面的なものではないと言う。その「活動」は「労働」すなわち「労働する動物」状態から自立していなければならない。近代社会は、国民国家も、共産主義国家も含めて、人々を単一な人間として「労働する動物」に変えてしまった。だから、人間を自由な存在とするためには、「労働する動物」から解放し、他者と協働する社会構築のための「活動」する存在としなければならないというのである。

 つまり、人間存在の価値を、労働や仕事をする存在にではなく、自由に議論する存在に置いている、ということになる。マルクスの人間的価値のとらえ方は、自然を相手に労働しそこから生存のための生産物とプラスしての剰余価値を得ていく、そこに生きる喜びがある、ということになろうか。それに対して、アーレントは、そんな労働は「奴隷の労働」のようなものであって、むしろ、そこから解放される所に価値を置く。

 実は、民俗学が依拠する人間観は、マルクス的な労働観に近い。自然(神)との関わりによる労働を社会形成の文化としてとらえるからだ。そうすると、アーレントの考えは、民俗学と対極にある、ということになる。だが、柳田民俗学の問題としてとらえ返すと、実は、柳田は、一方で、アーレントと似たことを言っている。地方に生きる人間が自分の住む地域の伝統や歴史を知ることで、よき選挙民として自立するべきだと言うのがそうだ。これは、単一的価値観に流れやすい国民に満足せず、地域の多様性を踏まえたうえで、選挙に対して自由な意志を明示できる人間の育成こそ民俗学なのだと言っているのである。

 が、柳田は、やはり、名も無き人々の日々の繰り返しの労働を尊重する。が、アーレントの言うようなことも言う。しかし、それだと、アーレントの労働観とは相容れない。

 ここが問題の本質だと思える。つまり、アーレントのようにはなかなか言えないということだ。れわれは、労働から解放されなくては自由になれないとはなかなか言えない。生存のためであるとは言え、人間の自然性に基づく労働をただ辛いものとしたとき、われわれは生きて行けるのか、という疑問がどうしても残るのだ。ただ、一方で、アーレントの言うように他者との協働する世界構築のための活動にこそ人間の価値を求めることも納得である。いったい、労働する存在であることを失わないで、一方で、他者と協働する世界への言論を駆使できる存在でもある、という、そのような人間的価値とは成立しないのだろうか。いや、成立する、と考えなければならないのではないか、というのが、アーレントを読んで考えたことということになろうか。

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