空飛ぶ泥船と『驚きの介護民俗学』と2013/04/01 14:05


 今年はどうも天候が悪く花見が出来ない。3月23、24日は桜は満開だが花見には早すぎ、次の週末は天候が悪い、来週は桜は散ってる、という具合だ。来週はマンションの新緑会だが、天気が心配。昨日は、友人の家で花見ではなくただの宴会となった。昼頃、狭山の友人宅の出かけ、その後に、坂戸に住む子だくさんのS夫婦が近くに新居を買ったというので訪問した。

 中古物件だが、なかなか大きな家で、子育てには良さそうな家だ。今時珍しく神棚があって、何も祀ってはないが、手作りの御幣がくっついている樹の枝が置いてある。聞くと、引っ越したときに、手作りの御幣を作って子どもたちと家中をお祓いしたそうだ。笑ったしまったが、きっと悪いモノは祓われたに違いない。子どもは異界の力を持つから並の神主より威力がありそうだ。子育てにはいいが通勤が大変そう。でも、通勤時間をどう利用するかそれを考えるのもいい。私は以前川越から通っていたとき、俳句などを作っていたけど、勉強したり、創作にいそしむとかそういうことに通勤時間を使うと得した気分になる。が、これは意志と体力と精神の余裕が必要だ。

 建物について言えば、24日に山小屋に助手さんたちが来たので、諏訪神社や諏訪湖周辺を案内した。藤森照信設計の守矢資料館はおすすめで訪れたが、近くに、有名なツリーハウスがある。それを見に行ったら、そのすぐそばに空中に浮かぶ小さな建物があった。最近出来たみたいで、私は始めて見た。「空飛ぶ泥船」という名前の建物で、2010年に藤森照信と地元の人たちが一緒に作ったという。これはなかなかおもしろかった。梯子をかけて入るようだが、けっこう揺れそうだ。

 お昼は諏訪市内の丸高味噌に連れて行った。ここの昼食はおすすめ。味噌造りの藏を改造した建物はクラシックでいいし、店内には花が生けてあるが、これば半端でなく豪華である。大きな甕に太い枝に満開になった桜が天井に届くばかりに挿してある。ちょうどその下の席で昼食を食べることになり、思わぬ花見となった。

 ところで今週号のアエラに六車由実さんが大きく取り上げられている。『驚きの介護民俗学』で注目を浴びて今時の人になっている。嬉しいことである。大学をやめて介護を始めたと聞いた時、その転身に誰もが驚いた。けれど、さすが民俗学者で、介護の現場でしっかりとお年寄りから聞き書きをしていた。

 それをまとめた『驚きの介護民俗学』はとてもいい本だ。だが、それが具体的にどんなところがいいのかと問われると説明するのはなかなか難しい。が、簡単に説明できないからこそ、それがいいところなのだ。ある民俗学研究会でこの本の話しをしたとき、民俗学における現場での聞き書きの本であって、ただ、それが介護の現場でなされただけだというような反応であった。つまり、何故こんなにもてはやされるのかよくわからないという感じの反応であった。

 たぶん、民俗学の分野ではそうなのだろうと思う。手法そのものに新しさはないし、いきなり介護と結びつけられてもそこにどういう学問的な新しさがあるのか、と戸惑っているのだろう。

 が、問題はそういうところではない。重要なのは、民俗学者が介護士として(民俗学者としてでなく)、本気で仕事をしたということだ。民俗学はそこでいったん捨てられたのだ。が、介護の現場で民俗学という学問の手法が自然に立ち上がってきた、そのことがこの本の持つ大きな意味なのである。こういう学問との出会い方というのは、まず、アカデミズムの中では皆無である。民俗学者が、一度捨てた民俗学とこのように出会うという経験もまずはあり得ない。そういう意味では、六車さんの体験は奇跡的と言ってもよい。

 まずそのことに驚かなくてはこの本を読んだことにならない。介護と民俗学が結びついた、というところだけに注目すると、ただ民俗学の現場を開拓しただけの話しになってしまう。そういうことではない。学問がどういう風に立ち上がってくるのか、それを見せてくれたという意味で、なかなか刺激的なのである。その意味で、民俗学という領域だけではない、いろんな化学変化を予期させる。むろんその化学変化を誘導するのはこれからの本人の課題でもあろう。

 文学の問題から考えると、最近の文学研究も批評も、書かれた結果(言語作品)を絶対的なものとし、書かれた内容は書かれた結果の側によって発見された二次的なものとして扱われる傾向にある。例えば口承的な世界はそれを書いた文字による作品によって発見されたものである、というふうに。この考え方は、書かれた世界と書いた主体とが同じではない、ということを前提としている。この前提はいいとしても、書かれたものを絶対化する思考には首をかしげざるをえない。

 このことを『驚きの介護民俗学』に戻してみると、実は、著者は老人である語り手が自分の過去の語りを書くことを代行してあげて、書いたものを本人に見せることで、語った本人がそれによって書いた主体になる、という相互作用をそこに出現させている。老人が自分の語った内容の書かれたテキストを手にし書いた自分をそこに発見していくのである(私はそのように読んだ)。そのことが私には面白かった。つまり、語り手と書いた主体は同一ではない。が、その同一でないことが恐らくは、この介護の現場で意味をもっている。ここでは語られた内容は、決して二次的な位置に後退していない。むしろ、語る本人が書く主体(自分)を新しく生み出すということになっているとも言える。つまり、私たちが前提としていた、声で語ることと書くこととの時系列的な前後を前提とした順位が、逆転し得ることを示しているかも知れないのである。

 そう考えると面白いではないか。頭をやわらかくするといろいろ見えてくるはずである。