魂の入らないキャリア教育2013/02/27 22:53

 先週の土日は京都立命館大学で行われたFDフォーラムに参加。ここ数年参加している。一日目は「学生の主体的な学び」がテーマのシンポジウムに参加し、二日目は「キャリア教育の現状と課題」という分科会に参加。

 一日目で面白かったのは、高知工科大学の職員の発表だった。職員でもこういうフォーラムで発表をする、という時代なのである。「教職協働」というフレーズがやたらに言われる時代である。この人、受け狙いの話術がややあざといが話しが面白い。その面白さは高知工科大学のユニークな教育やその環境にあると思われた。

 二日目の分科会で良かったのが沖縄の名桜大学の教員の発表である。名桜大学はほぼつぶれかかっていたが、公立化したことによって何とか維持しているという。そういう危機的状況の中で、学生に自分たちで新入生の様々な相談に乗る組織を立ち上げさせた事例を発表した。先輩学生が後輩の履修相談や就活相談などを行う場を学校が提供し、そこでグループが生まれ、そのグループがやがて運動体として育っていき、そこに参加した学生が企業からも評価されていく、という好循環を生んでいる成功事例の話しであった。

 感動的だったのは、何故学生がそんなに一生懸命に同じ学生仲間の相談相手になるのか、というと、それは、学校が無くなったら困るから、だという。つまり、学生達自身が学校を何とかしようというけなげな動機で頑張っているということだ。そんなに就職率の良い大学では無い。偏差値も高くはない。不本意入学の学生が多い。しかし、入ったからには潰さないように努力する、という生きるための基本的なかつりょく、あるいはプライドといったものがそこには感じられた。一度視察に言ってみたいと思ったものだ。

 他の発表は正直面白くなかった。理由は、キャリア教育の理念や、それをどう体系化してカリキュラムに組み込むのか、あるいは、組織作りをどうするか、という技術論の話しばかりだからだ。やたらにカタカナ言葉が飛び出して、こういうフォーラムの技術論がアメリカから輸入されたものであることがよくわかる。

 一番駄目だと思ったのは、今の時代をきちんと見ていないという点だ。だれかが、今は「逆三丁目の夕日の時代」だと言っていた。「三丁目の夕日の時代」が貧しくても希望のある時代だったとすれば、今は希望の無い時代だから逆だというのである。この言い方が面白かったが、結局、この希望がないと言える時代に「キャリア教育は可能なのか」という問いが少しも聞こえてこない。

 例えば「課題発見の力」「課題解決能力」「協調性」「コミュニケーション能力」を養う体系化されたプログラムが提示される。確かにそれはとても必要だが、教えている側も学生もそのプログラムに魂が入るのだろうか、と疑問になる。たぶん本気になれない気がするのだ。というのは、そういったプログラムは、自己実現の期待に沿う企業に就職するためのプログラム、という前提で語られる。つまり、社会での成功モデルが学生の将来と重なるように提示されている。それが間違いである。

 今、一部の有名大学を除いて、ほとんどの私立大学では、ワーキングプア予備軍の方が多い。就職率が良くない。仮に就職したとして、3年以内に3分の1が辞めてしまう。この「逆三丁目夕日」の時代に、成功モデルを基準にしたキャリア教育をやっても、誰も真剣になれないのは当たり前である。この教育モデルは、格差社会における一部の数少ない勝ち組を想定しているからである。むろん、勝ち組になるための努力というそれなりの意味はあるだろう。が、世の中そんなに甘くないことは学生の方が教員よりわかっているのである。

 今キャリア教育に重要なのは、まず、この格差社会化した資本主義の終わりの時代を、どうやって生き抜くか、という覚悟と知恵の必要性を伝えることである。教員には教えられないが、そういう事例は伝えられるだろう。名桜大学の事例はまさにそういう事例の一つだった。

 新幹線の中で、水野和夫・大澤真幸『資本主義の謎「成長なき時代」をどう生きるか』(NHK出版新書)を読んだ。この本なかなか面白かった。おすすめである。現代の資本主義がもう限界であることに二人の著者の見解は一致する。それは、もう拡張すべき空間(未来やバーチャルな電子空間も含めて)がないからである。水野和夫はそれを蒐集が出来ない時代と言う。資本主義の発達というのは蒐集の増大のことで、だから投資が盛んになり利率が上がる。現代は既に蒐集すべき空間がない。リーマンショックで電子空間も投資対象としての限界を露呈した。だから投資がなくなり利率が下がる。新しい空間が発見できない限り(もうそんなものはない)、日本の成長はあり得ないから、アベノミクスも失敗すると言う。そして資本主義の次のシステムを考える時がきているという。

 大澤は資本主義は矛盾的なシステムだから、必ずしも未知の投資欲をかき立てる空間がなくてもそう簡単には終わらないのでは無いか、という。つまり、限界点を引き寄せつつも同時に何らかの希望(どういうものであるにしろ)を用意するのが資本主義では無いか、と最後に述べる。この資本主義の評価の違いが面白かった。私は大澤のやや楽観的な見方に賛成だ。もう一冊、西部邁『どんな左翼にもいささかでも同意できない18の理由』(幻戯書房)を読んだが、この本もなかなか面白い。私も西部と同じようにもと左翼で(といっても筋金入りで無いので左翼というのもおこがましいが)ということもあって、どんなことを言っているのかと興味本位で読んでみたが、けっこう共感すること多し。私も、左翼的理想主義の自己中心主義、自分を棚にあげて貧しい側に立つ反省意識のなさとスイッチの入ったときの頑固さには嫌気がさしているので。

 ただし、左翼理想主義のうぶなところ(例えば格差に怒る正義感)を否定はしたくない。この本読んでいると、そういう心情まで否定されているのでそこがどうかなと思うところはある。ところで、この本でも資本主義の限界は言われていて、西部は伝統を対置する。伝統が構築してきた叡知のなかに資本主義を超える価値を見出す。

 資本主義はほんとにもうだめなのだろうか。よくわからない。ところで『資本主義の謎』で、資本主義の始まりを表す一つに公社の出現があった。教会と国家以外に、構成員が変わっても存続する公的組織というものは中世以前なかった。ところが、大航海時代に、投資者が組織を作って貿易をする組織を作った。それが最初の公社でそれが会社の始まりだという。かつて公的な組織を統べるのは神であるから、利益を目的として組織が成り立つことは考えられなかったのである。

 実は、教会と国家以外にもう一つ公的な組織があった。それが大学である。大学の歴史は会社より古い。つまり資本主義より古い。教会や国家と同じ理念によって成立した組織である。が、この組織、今資本主義的組織になりつつある。それは前回触れた。それにしても資本主義も終わりだというのに、資本主義の後を追っかけていいのか、というところである。