教育はサービス業か2013/02/22 23:33

 水曜から山小屋に来ている。久しぶりである。明日は京都に出張。立命館でFDフォーラムという研修に参加の予定。こちらでゆっくりと思ったのだが、そういうわけにもいかなかった。月曜に降った雪で、道路の際は雪の壁になっていて、家に入ることができない。雪かきして通路を確保するまで一時間ほどかかった。それだけで疲れた。

 一休みしたら、今度は勤め先から電話。今成績の結果が開示される時期で、その結果、卒業期の学生で卒業不可や、再試験を受けないと卒業できない学生が明らかになる。一人でも多く卒業させることが学科長としての私の仕事である。が、やはり何人かの学生が単位を落として卒業できない。再試験が受けられる学生と受けられない学生がいる。教員の評価によるのだが、必ずしもその評価は統一されているわけではなく、教員によって厳しい人とそうでない人がいるので、学生から当然不満も出る。

 中には親から事情を説明して欲しいという電話があったりする。そういう様々な問題の対応が最後には私のところに来る。この二日間、助手さんに連絡したり、担当していた教員に成績評価の基準を確認するやりとりなどもして、私は勤め先と何度電話のやりとりをしたか。

 これで給料をもらっているのだから仕方がないが、規則を厳格に守って処理する訳にもいかないところが大変である。卒業できない理由はほとんどが学生の怠慢やミスである。本当は教員が決して厳しいからではない。厳しいといっても、成績評価の基準を事前に学生に提示していて、その基準通りに評価しているのである。それでも甘い人と厳しい人がいるとしても、基準を無視して厳しくする教員はいないのである。だが、落とされた学生にしてみれば、その厳しさが不公平だという不満が出る。それは違うと、言いたいところだが、そうは直接言えないところがある。

 やはり学生の人生がかかっているという事実は重い。厳しくした方がその学生に取っては教育上いいことだという教員もいる。間違ってないが、そういう場合だいたい教員の自己弁護の発言である場合が多い。不合格者を出すとき、もっと面白く授業をやればとかわかりやすくすれば良かったのでは無いかと悔やまない教員はいないはずだ、とも思う。私もそうだ。そういう思いがある以上、本人が悪いんだと、学生を簡単に切れないのである。

 かつての大学バブルの時代、大量の学生がいて、就職も悪くない時代、成績評価をこんなに悩まなかっただろう。教育がサービス業だという認識を社会が持っていなかった時代だ。いい加減な教員もいたし、学生もそれを承知で大学は通過すればいいと思っていた。懐かしい時代である。が、今は、そうではない。学生側は授業料の対価を学校に求める。大学は、その学生に教育を施し一定の成果を上げる責任を負う。予備校のコマーシャルで志望校に入れなかったら授業料を返しますというコピーがあったが、ゆくゆくは大学もそうなるかもしれない。競争原理の働くサービス業はそこまでいくのである。

 むろん、大学はサービス業ではない、それなりの崇高な使命を負う教育の場だという共通理解もまだあるだろう。それはそれであって欲しいが、サービス業になっていくこともまた避けられないことだ。サービス業とは顧客を満足させる業態である。教育も学生という顧客をどう満足させるか、ということになる。教員はサービスを売りその対価を学生から受け取る、こう言ってしまうと味気ないが、サービス業とはそういうものだ。

 とするとそこに師弟関係は成立しない。一方で、教員が学生の立場になってどうやったら顧客を満足させるか考えるという関係のとり方が出てくる。情けないがそういうこともあり得る。「白熱教室」という本が何冊も出ているが、その背景には教育がそサービス業になったことがあるだろう。学生の人気が無ければ教育は成立しない。それがアメリカの教育の在り方であり、「白熱教室」もアメリカから始まって、日本に広まってきているのである。

 成績評価の話から教育がサービス業になってきているところまで話が広がってきたが、これはむろん関連している。サービス業では、学生の質よりも教員の顧客への接待能力が問われる。実は、その能力を経営者が図る指標の一つが成績評価なのである。つまり、その成績評価によって教員が顧客をどのように満足させたか、が問われることにもなるのだ。例えば、厳格に成績をつけて顧客に不満を抱かせたり親から抗議されたりする教員は、能力がないと判断されてしまうのである。おかしい話だが、教育も、人間と人間との社会的な関係を抱え込むものだとすれば、必ずしも理不尽とは言えない。

 さて、話がだんだんと鬱陶しくなってきたので、サービス業の利点を言うとすれば、教員と学生が師弟関係に縛られないというところに求められようか。師弟関係にあこがれる教員もいるだろうが、それは教員と学生をいわば制度的な関係の鋳型にはめ込むことである。それが悪いとは思わないが、人格と関係なく師とみなされるだけで憎悪の対象になることも覚悟しなければならない関係である。私はどうもこの師弟関係が苦手である。その意味ではサービス業のほうが何となく気が楽というところがある。サービス業は心地よく勉強させてなんぼ、という割り切り方ができる。

 が、教育をサービス業とみなす欠点は、一人の将来を金銭的な利益に換算することであり、その結果として、人と人との深い結びつきを面倒なものとみなすことだろう。師弟関係では教員は憎悪されることもあるが、その人格故に深く尊敬されることもある。それもまた捨てがたいものである。

 が、サービス業であっても、そこには、やはり人と人とのやりとりがある以上尊敬というものが成立しないこともないだろう。要は、人と人とが深く関わりすぎるくらい関わってしまう現場であるということだ、教育という現場は。その意味では、師弟関係のような鋳型が成立しないサービス業のほうが、人と人との関わりの実質が試される、ということになるだろう。つまり、教員が学生のこころを傷つけた場合の影響ははるかにサービス業の方が大きい。その意味では、この嫌な競争社会を生き抜くための人格が見抜かれ、また鍛えられるのはこっちということになる。

 どっちがいいということではなく、サービス業であろうとそれに適応していかざるを得ないということだ。教員に、競争から免除されるような特権を期待してはいけない。そのうえで、せめて人格を落とさないような努力はしたいものだ。

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