リアルさを見ないで済むなら…2013/02/06 00:12

 今入試の最中である。わが学科は明後日で、とりあえず雪の直撃は受けそうにないのでよかった。ただ、明日は学部の入試なので関係者はやきもきしているだろう。成人式の日のようにならないといいのだが。

 先週の週末は久しぶりに山小屋で過ごした。道路際に除雪した雪が壁になっていて、それを越えて山小屋に入るのに手間がかかったが、入れば快適である。ゆっくり過ごしたいがそうもいかない。授業はないが、2月はほぼ毎日出校なのである。会議、会議の連続である。温泉に行って体重をはかったところ、2キロ増えていた。成人病予備軍の私としてはこの増加は危険信号である。原因は運動不足。運動する時間が決してないわけではないが、なかなか出来ない。せめて雪の上でも歩こうとスポーツ店にスノーシューを見に行ったが、けっこう高いので、ネットで買うことにした。スポーツ店の半額である。これじゃスポーツ店は潰れるなあと思わず同情。でもネットで買うことに変わりはないが。

 山小屋で週末、渡辺松男歌集『蝶』についての短歌時評を何とか書き終えた。この歌人の歌について書くのは二度目である。『蝶』の歌、どの歌をとっても胸をうつ。病を抱えて生と死を凝視している歌人の歌ということもあるが、人間を超越したようなところから時にユーモアを漂わせ表現する。その喩はアニミズム的である。つまり、自然物や動植物を装うのである。

    木のやうに目をあけてをり目をあけてゐることはたれのじやまにもならず
かたつむりの全体重を葉はのせて わたしが葉ならそらを飛ぶのに
あかげらにどらみんぐされてゐる楢の こんなときわれは空にひびきをり

 不思議な存在感のある歌である。こんな境地を味わえたらいいのに、と正直思ったほどであるが、この境地には、生と死の境界を見つめるリアルな眼差しがあるに違いない。まだまだ私にはたどり着けない境地である。

 『銀の匙』というマンガがある。借りてきて読んでいるが、その中に、獣医になる条件について教えられるシーンがある。そこで「殺れるか」と問われる。つまり、動物を殺せなくては獣医になれないというのだ。例えば競走馬が骨折すれば安楽死させられる。それが出来るかということである。そういうリアルさを時に思い知らされるときがある。

 でも、人は、そういうリアルさはどこかでわかっていて、わかっているから、見ないで済むなら見ないで済まそうと日々を過ごしているのではないか。ペットのかわいらしさは、人間よりはかないからだというのが私の考えである。ペットが人間より長生きで人間よりタフだったら、ペットに癒やされるということはないだろう。リアルのはかなさとかわいらしさとは表裏なのである。

 ちなみにうちのチビのかわいらしさ(犬自慢ですが)もたぶんにその小ささと短命の予感にあると思う。

                         小さきものらに雪降り積もる

教育はサービス業か2013/02/22 23:33

 水曜から山小屋に来ている。久しぶりである。明日は京都に出張。立命館でFDフォーラムという研修に参加の予定。こちらでゆっくりと思ったのだが、そういうわけにもいかなかった。月曜に降った雪で、道路の際は雪の壁になっていて、家に入ることができない。雪かきして通路を確保するまで一時間ほどかかった。それだけで疲れた。

 一休みしたら、今度は勤め先から電話。今成績の結果が開示される時期で、その結果、卒業期の学生で卒業不可や、再試験を受けないと卒業できない学生が明らかになる。一人でも多く卒業させることが学科長としての私の仕事である。が、やはり何人かの学生が単位を落として卒業できない。再試験が受けられる学生と受けられない学生がいる。教員の評価によるのだが、必ずしもその評価は統一されているわけではなく、教員によって厳しい人とそうでない人がいるので、学生から当然不満も出る。

 中には親から事情を説明して欲しいという電話があったりする。そういう様々な問題の対応が最後には私のところに来る。この二日間、助手さんに連絡したり、担当していた教員に成績評価の基準を確認するやりとりなどもして、私は勤め先と何度電話のやりとりをしたか。

 これで給料をもらっているのだから仕方がないが、規則を厳格に守って処理する訳にもいかないところが大変である。卒業できない理由はほとんどが学生の怠慢やミスである。本当は教員が決して厳しいからではない。厳しいといっても、成績評価の基準を事前に学生に提示していて、その基準通りに評価しているのである。それでも甘い人と厳しい人がいるとしても、基準を無視して厳しくする教員はいないのである。だが、落とされた学生にしてみれば、その厳しさが不公平だという不満が出る。それは違うと、言いたいところだが、そうは直接言えないところがある。

 やはり学生の人生がかかっているという事実は重い。厳しくした方がその学生に取っては教育上いいことだという教員もいる。間違ってないが、そういう場合だいたい教員の自己弁護の発言である場合が多い。不合格者を出すとき、もっと面白く授業をやればとかわかりやすくすれば良かったのでは無いかと悔やまない教員はいないはずだ、とも思う。私もそうだ。そういう思いがある以上、本人が悪いんだと、学生を簡単に切れないのである。

 かつての大学バブルの時代、大量の学生がいて、就職も悪くない時代、成績評価をこんなに悩まなかっただろう。教育がサービス業だという認識を社会が持っていなかった時代だ。いい加減な教員もいたし、学生もそれを承知で大学は通過すればいいと思っていた。懐かしい時代である。が、今は、そうではない。学生側は授業料の対価を学校に求める。大学は、その学生に教育を施し一定の成果を上げる責任を負う。予備校のコマーシャルで志望校に入れなかったら授業料を返しますというコピーがあったが、ゆくゆくは大学もそうなるかもしれない。競争原理の働くサービス業はそこまでいくのである。

 むろん、大学はサービス業ではない、それなりの崇高な使命を負う教育の場だという共通理解もまだあるだろう。それはそれであって欲しいが、サービス業になっていくこともまた避けられないことだ。サービス業とは顧客を満足させる業態である。教育も学生という顧客をどう満足させるか、ということになる。教員はサービスを売りその対価を学生から受け取る、こう言ってしまうと味気ないが、サービス業とはそういうものだ。

 とするとそこに師弟関係は成立しない。一方で、教員が学生の立場になってどうやったら顧客を満足させるか考えるという関係のとり方が出てくる。情けないがそういうこともあり得る。「白熱教室」という本が何冊も出ているが、その背景には教育がそサービス業になったことがあるだろう。学生の人気が無ければ教育は成立しない。それがアメリカの教育の在り方であり、「白熱教室」もアメリカから始まって、日本に広まってきているのである。

 成績評価の話から教育がサービス業になってきているところまで話が広がってきたが、これはむろん関連している。サービス業では、学生の質よりも教員の顧客への接待能力が問われる。実は、その能力を経営者が図る指標の一つが成績評価なのである。つまり、その成績評価によって教員が顧客をどのように満足させたか、が問われることにもなるのだ。例えば、厳格に成績をつけて顧客に不満を抱かせたり親から抗議されたりする教員は、能力がないと判断されてしまうのである。おかしい話だが、教育も、人間と人間との社会的な関係を抱え込むものだとすれば、必ずしも理不尽とは言えない。

 さて、話がだんだんと鬱陶しくなってきたので、サービス業の利点を言うとすれば、教員と学生が師弟関係に縛られないというところに求められようか。師弟関係にあこがれる教員もいるだろうが、それは教員と学生をいわば制度的な関係の鋳型にはめ込むことである。それが悪いとは思わないが、人格と関係なく師とみなされるだけで憎悪の対象になることも覚悟しなければならない関係である。私はどうもこの師弟関係が苦手である。その意味ではサービス業のほうが何となく気が楽というところがある。サービス業は心地よく勉強させてなんぼ、という割り切り方ができる。

 が、教育をサービス業とみなす欠点は、一人の将来を金銭的な利益に換算することであり、その結果として、人と人との深い結びつきを面倒なものとみなすことだろう。師弟関係では教員は憎悪されることもあるが、その人格故に深く尊敬されることもある。それもまた捨てがたいものである。

 が、サービス業であっても、そこには、やはり人と人とのやりとりがある以上尊敬というものが成立しないこともないだろう。要は、人と人とが深く関わりすぎるくらい関わってしまう現場であるということだ、教育という現場は。その意味では、師弟関係のような鋳型が成立しないサービス業のほうが、人と人との関わりの実質が試される、ということになるだろう。つまり、教員が学生のこころを傷つけた場合の影響ははるかにサービス業の方が大きい。その意味では、この嫌な競争社会を生き抜くための人格が見抜かれ、また鍛えられるのはこっちということになる。

 どっちがいいということではなく、サービス業であろうとそれに適応していかざるを得ないということだ。教員に、競争から免除されるような特権を期待してはいけない。そのうえで、せめて人格を落とさないような努力はしたいものだ。

魂の入らないキャリア教育2013/02/27 22:53

 先週の土日は京都立命館大学で行われたFDフォーラムに参加。ここ数年参加している。一日目は「学生の主体的な学び」がテーマのシンポジウムに参加し、二日目は「キャリア教育の現状と課題」という分科会に参加。

 一日目で面白かったのは、高知工科大学の職員の発表だった。職員でもこういうフォーラムで発表をする、という時代なのである。「教職協働」というフレーズがやたらに言われる時代である。この人、受け狙いの話術がややあざといが話しが面白い。その面白さは高知工科大学のユニークな教育やその環境にあると思われた。

 二日目の分科会で良かったのが沖縄の名桜大学の教員の発表である。名桜大学はほぼつぶれかかっていたが、公立化したことによって何とか維持しているという。そういう危機的状況の中で、学生に自分たちで新入生の様々な相談に乗る組織を立ち上げさせた事例を発表した。先輩学生が後輩の履修相談や就活相談などを行う場を学校が提供し、そこでグループが生まれ、そのグループがやがて運動体として育っていき、そこに参加した学生が企業からも評価されていく、という好循環を生んでいる成功事例の話しであった。

 感動的だったのは、何故学生がそんなに一生懸命に同じ学生仲間の相談相手になるのか、というと、それは、学校が無くなったら困るから、だという。つまり、学生達自身が学校を何とかしようというけなげな動機で頑張っているということだ。そんなに就職率の良い大学では無い。偏差値も高くはない。不本意入学の学生が多い。しかし、入ったからには潰さないように努力する、という生きるための基本的なかつりょく、あるいはプライドといったものがそこには感じられた。一度視察に言ってみたいと思ったものだ。

 他の発表は正直面白くなかった。理由は、キャリア教育の理念や、それをどう体系化してカリキュラムに組み込むのか、あるいは、組織作りをどうするか、という技術論の話しばかりだからだ。やたらにカタカナ言葉が飛び出して、こういうフォーラムの技術論がアメリカから輸入されたものであることがよくわかる。

 一番駄目だと思ったのは、今の時代をきちんと見ていないという点だ。だれかが、今は「逆三丁目の夕日の時代」だと言っていた。「三丁目の夕日の時代」が貧しくても希望のある時代だったとすれば、今は希望の無い時代だから逆だというのである。この言い方が面白かったが、結局、この希望がないと言える時代に「キャリア教育は可能なのか」という問いが少しも聞こえてこない。

 例えば「課題発見の力」「課題解決能力」「協調性」「コミュニケーション能力」を養う体系化されたプログラムが提示される。確かにそれはとても必要だが、教えている側も学生もそのプログラムに魂が入るのだろうか、と疑問になる。たぶん本気になれない気がするのだ。というのは、そういったプログラムは、自己実現の期待に沿う企業に就職するためのプログラム、という前提で語られる。つまり、社会での成功モデルが学生の将来と重なるように提示されている。それが間違いである。

 今、一部の有名大学を除いて、ほとんどの私立大学では、ワーキングプア予備軍の方が多い。就職率が良くない。仮に就職したとして、3年以内に3分の1が辞めてしまう。この「逆三丁目夕日」の時代に、成功モデルを基準にしたキャリア教育をやっても、誰も真剣になれないのは当たり前である。この教育モデルは、格差社会における一部の数少ない勝ち組を想定しているからである。むろん、勝ち組になるための努力というそれなりの意味はあるだろう。が、世の中そんなに甘くないことは学生の方が教員よりわかっているのである。

 今キャリア教育に重要なのは、まず、この格差社会化した資本主義の終わりの時代を、どうやって生き抜くか、という覚悟と知恵の必要性を伝えることである。教員には教えられないが、そういう事例は伝えられるだろう。名桜大学の事例はまさにそういう事例の一つだった。

 新幹線の中で、水野和夫・大澤真幸『資本主義の謎「成長なき時代」をどう生きるか』(NHK出版新書)を読んだ。この本なかなか面白かった。おすすめである。現代の資本主義がもう限界であることに二人の著者の見解は一致する。それは、もう拡張すべき空間(未来やバーチャルな電子空間も含めて)がないからである。水野和夫はそれを蒐集が出来ない時代と言う。資本主義の発達というのは蒐集の増大のことで、だから投資が盛んになり利率が上がる。現代は既に蒐集すべき空間がない。リーマンショックで電子空間も投資対象としての限界を露呈した。だから投資がなくなり利率が下がる。新しい空間が発見できない限り(もうそんなものはない)、日本の成長はあり得ないから、アベノミクスも失敗すると言う。そして資本主義の次のシステムを考える時がきているという。

 大澤は資本主義は矛盾的なシステムだから、必ずしも未知の投資欲をかき立てる空間がなくてもそう簡単には終わらないのでは無いか、という。つまり、限界点を引き寄せつつも同時に何らかの希望(どういうものであるにしろ)を用意するのが資本主義では無いか、と最後に述べる。この資本主義の評価の違いが面白かった。私は大澤のやや楽観的な見方に賛成だ。もう一冊、西部邁『どんな左翼にもいささかでも同意できない18の理由』(幻戯書房)を読んだが、この本もなかなか面白い。私も西部と同じようにもと左翼で(といっても筋金入りで無いので左翼というのもおこがましいが)ということもあって、どんなことを言っているのかと興味本位で読んでみたが、けっこう共感すること多し。私も、左翼的理想主義の自己中心主義、自分を棚にあげて貧しい側に立つ反省意識のなさとスイッチの入ったときの頑固さには嫌気がさしているので。

 ただし、左翼理想主義のうぶなところ(例えば格差に怒る正義感)を否定はしたくない。この本読んでいると、そういう心情まで否定されているのでそこがどうかなと思うところはある。ところで、この本でも資本主義の限界は言われていて、西部は伝統を対置する。伝統が構築してきた叡知のなかに資本主義を超える価値を見出す。

 資本主義はほんとにもうだめなのだろうか。よくわからない。ところで『資本主義の謎』で、資本主義の始まりを表す一つに公社の出現があった。教会と国家以外に、構成員が変わっても存続する公的組織というものは中世以前なかった。ところが、大航海時代に、投資者が組織を作って貿易をする組織を作った。それが最初の公社でそれが会社の始まりだという。かつて公的な組織を統べるのは神であるから、利益を目的として組織が成り立つことは考えられなかったのである。

 実は、教会と国家以外にもう一つ公的な組織があった。それが大学である。大学の歴史は会社より古い。つまり資本主義より古い。教会や国家と同じ理念によって成立した組織である。が、この組織、今資本主義的組織になりつつある。それは前回触れた。それにしても資本主義も終わりだというのに、資本主義の後を追っかけていいのか、というところである。