明けましておめでとうございます2013/01/02 23:16

 明けましておめでとうございます。今年は良い年でありますよう。
 恒例なのだが、晦日から小さな子ども四人連れの家族が来ていて賑やかな正月であった。彼らが帰ってほっと一息ついたところだ。一日は、須玉に来ていた知り合いを訪ねて近くの建部神社に行く。この神社では、一日に甲州大和神楽が演じられるそうだ。知り合いがその神社の神主と懇意で、神殿にあがりいろろいと話を聞いた。その話がなかなか面白かった。祖父から神官の心得を徹底したたたき込まれたこと、國學院大学での修行の話から、古事記や日本書紀の話、礼儀作法のことまで話は展開し、九〇分の講義と同じ時間学生のように拝聴した。小さな神社だが神主ともども興味が湧いた。来年の正月には神楽を見に行くつもり。なお知り合いは、神社や寺に奉納された村人の手になる俳句の額を研究していて建部神社にも立派な額があるので、それを見せてもらう縁で神主と知り合いになったということらしい。

 帰り須玉から小淵沢に行く途中に「舟形神社」がありお参りする。ここも小さな神社でやはり正月には神楽をやるらしい。アプローチがとても雰囲気がある(写真)。ちなみに、建部神社の祭神はヤマトタケル、舟形神社の祭神はタケミナカタである。何故「船形」という名前かはわからなかったが、建部神社の神主の話だと、この辺りは海人族に関わる地名が多い。「船形神社」もそうだろうということだ。神社では村人が御神酒を振る舞ってくれお札をくれた。

 昨年もばたばたと忙しく過ぎた年だったが、今年はどうなることやら。かなり論文も書いているのでそろそろまとめなきゃと思いつつ正月を迎えるのが数年続いたが、今年は何とかしなきゃと思っている。

 ただ、勤め先の短大の定員割れに直面し、何か打つ手がないかなどといろいろ考える年になりそうだ。私一人でがんばってもどうなることでもないことはわかっているが、多くの教員の生活もかかっていることだし、時代のどうしようもない流れに逆らうことかもしれないが、できることはやっておきたい。就職進路課の課長の話によるとまだわが学科の就職率は他短大からくらべればダントツにいいそうだ(青短もダントツだそうだが)。それだけ全国の短大は就職に悪戦苦闘しているということだ。その影響は、わが短大にももろに押し寄せているのである。

 去年助手さんの力を借りてかなり就職支援の活動をした。キャリア教育の先生に言わせれば就活は「気合いだ!」だそうだ。その気合いをいれ、情報を提供し、孤独にならない工夫をあれこれとやり、おかげで前年よりも10パーセントも就職率が上がった。大手の企業の内定も何人かとれた。だがそれでも、内定のとれない学生、就活をあきらめている学生がまだまだいる。あと三ヶ月で、学生たちを何とか就職させて社会に送り出さなければならない。この成果が、次の年度の学生募集に直接影響を与えることになる。長年教員をやっているが、こんなにも学生の就職について真剣に考えた年はなかったように思う。

 特に文系の学問は就職に直接役立つものではないが、それでも、関係ないと言うわけには行かない。就職に役立つ知識も「知」であって、文学や哲学の知と基本的に変わりはしない。一人の学生の一年先、五年先、十年先の人生を考えることに関わらない知は空疎な知である。その意味では、今、われわれが教える、あるいは自分の学問の根拠としている知が空疎になるかどうか試されているとも言える。

 就活に必要なのは、生きることに前向きな姿勢と注意深さと、そして人と関わろうとする積極性である。性格の問題ではない。性格がどうであろうと、このように行動しなければならない。この姿勢は演技でも良いのだ。人は働かねば生きていけない、という厳然たる原理を引き受けるためのこれは姿勢なのでもある。知とは、こういう原理にさらされるところで、その強靱さが試されるのかもしれない。

 正月休みに読んだ本にネイティブ・アメリカンの口承史『一万年の旅路』がある。アジア大陸からベーリング海を渡ってアメリカ東海岸にたどり着くまでの、一万年にわたる共同体の旅の伝承を綴ったものだが、どこまでが正確な記憶なのかは置いておくとして、このイロコイ族は、困難に直面すると会議をひらき、伝承された歴史を歌い、そこに蓄積された知恵を会議に反映させる。つまり、その口承の史は、彼らが生き延びるための原理に絶えずさらされていて、その繰りかえしのなかで、彼らは未来を決めていく。興味深いのは、例えば道が二つに別れていて、どっちに行くか意見が二つに分かれたら、その二つの意見を尊重し、部族を二つに別けてそれぞれの道を行かせることだ。こういうやり方が随所に見られる。つまり、判断が付かない場合、部族の全滅を免れるために、あえて一つだけの道を選択しないという知恵である。そういう判断があったことや、結果としてどうなったかということが何度も語られる。

 知が生存の原理にさらされるということはこういうのを言うのだろう。今、日本のたくさんの知識人が語る「知」、は、日本人の生存の原理にさらされている。格差社会、原発問題、貧困、社会保障と、この問題から免れる学問など、今の日本にあり得ないように、就活問題で日々苦闘する、われわれの学問もまた生存の原理から免れることはないのだ。

 学校で教えている様々な学問が、ネイティブ・アメリカンの口承史のように、必死で就活をしている学生たちに知恵を授け得るものになっているのかどうか。ますます試されている気がしているのだ。
 
                         行く年来る年生きる知恵はあるや