吉本の通訳2012/04/14 00:28

今週は毎日出校。アジア民族文化学会の発送準備で忙しい。ポスターの発送、機関誌の発送準備といろいろある。ほとんど一人でやる。手伝いを頼むことも可能だが、みんな忙しく、結局合間を見て自分でやるのが一番効率がよい。

 水曜は市民講座の最初の授業。シニア文化講座ということで、受講者は年配の人ばかり。教室は、地下鉄の青山一丁目の駅の上のビルにある。「日本史におけるシャーマニズム」というテーマで、まずシャーマニズムの紹介から入った。私はいつも女性ばかりに教えているのだが、今回は男性の割合が多い。歴史と銘打った授業だからだろうか。私は歴史は専門でないので、歴史好きの受講者から結構突っ込まれれそうだ。準備が大変である。

 それにしてもだ。私より年配の人たちの学習意欲とはすごいものだなとつくづく感心する。みんな若い時にはそれなりの教育を受けた人たちだろうに。「シャーマニズム」について一体どういう興味なのだろうか。冒頭一番、みなさん本当に好奇心の強い方々ですね、と語りかけた。好奇心こそが長生きの秘訣なのかも知れない。私も好奇心だけは負けないと思っている。そうでなきゃ、こういう講座を引き受けない。

 今日、夜8時からのBSフジのプライムニュースで、吉本隆明特集をやっていた。この保守的な番組で吉本を取り上げるのが面白く、つい見てしまった。ゲストは、三浦雅士と芹沢俊介。司会者が、どうして吉本はそんなに若者に影響をあたえたのか、という質問に、二人のゲストが彼の思想はこうなんだ、と答えるのだが、三浦雅士がやたらに早口で饒舌で、こんいう人だったんだと初めて知った。

 感想は、吉本隆明は、世代や人によって違った読まれ方をするのだなあ、というものである。テレビでの短い発言だから、簡単には決めつけられないにしても、吉本の偉さを一言で言うときに、やはり、世代やどういう生き方をしたか、というところで大分違うのだなと感じた。むろん、理解力という問題もあるだろうが、二人の吉本の思想の褒め方と私のとは大分違うように感じた。

 私は、吉本の思想の一つのポイントは、知識や観念を突き詰めて生きることが、人間にとっての自然過程だとしながらも、それが何故時に無力なのか、あるいは、何故間違うのかという問題を徹底的に極めようとしたことだと思っている。転向論から始まるのは、理念的に生きることの脆さをそこに見たからだ。吉本の出した一つの答えは「大衆の原像」だった。つまり、理念的に生きる事がどうしても抱え込む超越的な位置取りを、いったん生活の側に下ろさないと、その理念が無力になったり間違うことがある、ということである。

 知識人を評価するとき、知識人とは、知識を積極的に肯定しながらその知識の高ピーな位置取りをいかに無効にするかという矛盾にさらされること、を理解しているかどうか、という見方をした。吉本が最も理想とした知識人は親鸞だった。親鸞は、その矛盾をみごとに自覚して生きた思想家だったと考えたからだ。

 今日の吉本特集の番組を見ていて、ゲストはこのようなことを一言も語らなかった。それでどうも、私とは理解の角度が違うのだなと思ったのである。別に私の見方が正しいなどとは思っているわけではないが、改めて、吉本は人それぞれにそれぞれの吉本像で読まれていると感心したのである。司会は二人のゲストを吉本の思想の通訳者と紹介していたが、あまりいい通訳をしていなかったように思うのだが。

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