心の通うデータ2011/11/12 00:49

 今日はS大での授業のあと、奥さんと表参道にある音楽ホールへ。もと隣人の音楽家から演奏会の案内をもらったので聴きに行った。演目はモーツアルトとブラームスの弦楽五重奏曲である。小さなホールなので弦楽器の音が直接響いてくる。たまにはこういうコンサートに行くのもいい。しかし今日は雨が降って寒かった。

 タブレットで電子書籍を読んだが、これは余りすすめられない。まず、首が痛くなる。ワープロや本の読み過ぎによるむち打ち症状は持病だが、その持病が悪化した。タブレットは本より重い。だから、どうしても持つ手が下がり気味になり、頭も下を向いてしまう。この姿勢が私には良くないのだ。

 一番の問題は、電子書籍は他人に気軽に渡せないことだ。例えば、奥さんや友人にこれ面白いから読んだらと手渡せない。タブレットを手渡すというわけにもいかない。データを取り出して渡すというのは著作権の問題があって簡単に出来ないようになっている。それに古本屋に売れない。文化祭の時にやっている古本市に本を出品出来ない。やはり、本も、物としての手触りがあるのとないのとでは大分違う。物の流通が持つ、人と人との関わりは、データによる人との関わり方は違う。やはり、物を通した人との関わり方の方が、心が通う。心が通うというのは、本の物としての流通は、限られた交換であるからだ。例えば、一冊の本がいきなり一億の人に手渡るということはない。が、データはそれが可能なのである。物としての本は、始めから手渡せる範囲の相手にしか手渡せない。当然、その相手との関係は、データのやりとりによる関係よりは心が通うものになろう。

 ただ、電子書籍というデータのやりとりが制限されているのは、それが課金される商品であるからだ。データは情報だから、インターネットのようなツールでは、無料で一億に行き渡るということも起こりかねない。だから、厳しくデータのやりとりが制限されている。

 しかし、データでも金が掛からなければ心が通うことも大いにある。先週NHKで「孤立集落どっこい生きている」という、津波の被害で孤立し、ほとんどを失った南三陸のある村(馬場中山地区)の人たちが、ばらばらにならずに、行政の支援も受けず、自力で復興へと努力して成果を上げているドキュメンタリーをやっていた。見ていて感動してしまったのだが、実は、この村の大いなる力になっていたのがインターネットなのである。この村では、復興へホームページを立ち上げ、(http://babanakayama.client.jp/)協力を呼びかけた。そして、ホームページで、復興の様子を刻々と公開していったのである。

 自分たちで道路を作り仮設住宅も作る。資材や労力はホームページを見た全国のボランティアが提供してくれる。この手助けは手渡しの範囲では出来ない。やはり、一億に一瞬で伝わるような情報ツールの力のおかげである。この情報は商品でないから、心がこもる、ということにもなる。

 村の持つ共同体の力はたぶんまだ生きているだろう。この番組を見てそれを感じたが、共同体の外とこんなにもつながることの出来るデータのやりとりの力にも感心した。なかなかボランティアまでは出来ない私としては、人とつながりながらたくましく復興していく人たちに、感動し、逆にたくさん学ぶべき事があるようにも思ったのである。

                         たくましく瓦礫の猫に初時雨