場所と痛み2011/11/06 23:34

 土曜日、アジア民族文化学会の大会。「環境と神」というテーマでのシンポジウム。シンポジウムといっても私を含めた四人による発表が長引き、相互討論の時間がなくなってしまった。けれども、その分かなり濃い発表だったのでないか。一時から五時半まで、ほとんど休憩なしの大会だった。

 テーマのせいかも知れないが、かなり盛り上がった。聴きに来てくれた人もけっこう多かった。聴く方も発表する方も疲れた大会であったが、こんなに充実した研究発表は初めてと言ってくれた人もいて、このシンポジウムに賭けていた私としては、大きな責任を果たした安堵感で、さすがに会が終わったら力が抜けた。ただ、いつものようにもこのように言えば良かったと反省ばかりではあったが。

 雲南省納西族の自然観を自然神である署神という神を通して考える発表が続き、最後に、S氏の、ユタが身体の痛みを沖縄の地図に重ね合わせるという話で、何故かパネラーの話が全部がつながった。納西の経典には、署神とトラブルを起こすことによる人間の痛みの話が出てくる。実は、署神も人間に傷つけられた痛みを抱えていてる。その痛みの解消のために、人間と署神は和解するのである。

 納西では人間と署神は異母兄弟であり分身のようなものだが、互いに対立し傷つけ合う。ユタは、身体の痛みを自然に投影する。つまり、署神と人間との葛藤を、ユタは身体というレベルで味わい、それを克服しようとしているということだ。

 会場から、よく都会でテレビに出てくる超能力のシャーマンのような人がいるが、そういう人とユタの違いは何か、という質問が出た。S氏は、場所があるかないかだと答えた。場所とは、ユタという存在が帰属する共同体と言い換えてもいいのだろう。それは実際の村でなくてもいいが、いずれにしろ、ユタは、孤立しているわけではなく、その土地や共同体や文化、あるいは関係性の中で、ユタであり得るのである。つまり、そういつた場所がユタを誕生させる。が、ユタがそのような場所を自分の場所として生き直すには、痛みという、場所と同一化するための身体レベルの試練が必要なのである。

 一方で没場所で生きざるを得ないのが、われわれである、という。没場所とは、自分の身体をアナロジーとしても重ねられない空間のこと。高層ビルの乱立する場所は、自分の身体を場所にアナロジー出来ない。それ自体、身体的空間把握の限度を超える空虚な場所だからだろう。そういう没場所では、ユタのような力は、例えばテレビというメディアによって、空虚な生活を埋める好奇心の対象でしかない。場所を持つのか没場所なのか、その違いは決定的だ。と言う。

 ユタが、井戸のような場所に自分の根拠を求める事がよく理解出来た。そこは神話を生む場所でもある。自分の生まれた、つまり起源の場所である、ということだ。そのようにアナロジーできる場所を持たないのがわたしたちであり、そうであるがゆえに本当の意味での自然との葛藤を持たないとも言える。

 私たちは身体の痛みとして自然との葛藤を持つことはすでにない。高い防潮堤を建てて津波などこないと安心しきるのと同じである。痛みということが大事だという、S氏の発言に、感動したという声が幾つか会場から寄せられた。私は、S氏の発表は何回か聞いているので、別に感動もしなかつたが、初めての人にはけっこう心に入る言葉だったようだ。彼をパネラーに加えてよかったと思った次第である。