ラピュタの力2011/06/19 00:25

今日は研究会で出校。結局月曜から土曜まで出校となった。今週は、授業見学会の週で、私は委員なので他の教員の授業をいくつか見なくてはならない。ということで、昨日は、休みだったのだが、授業見学で出校。FD委員会でその報告をしなければならないのである。みんな熱心に授業している。他の授業を覗くのは勉強になる。

 たぶんどこの大学の教員も今が一番疲れているのではないか。結構蒸し暑いし、冷房も制限されている。五月の連休ナシの大学も多い。あと一ヶ月ちょっとの辛抱だが、梅雨明けになって猛暑になったとき、どうなるか。学校では、授業中、学生に飲み物を飲んでいいと通達を出した。暑さ対策である。暑さで学生の気分が悪くなったら授業を中止していいという通達も出た。そんな通達を出すなら授業そのものをやめるべきではないか、と批判する教員もいる。確かに、7月の第一週で休暇に入る大学もある。その批判わからないではない。

 研究会をやっていても確かに暑苦しい。これがほんとうは普通であって、わたしたちは快適な環境に慣れすぎているのかも知れないが、一度快適さになじんでしまうと、元に戻すのはとても難しい。先週、原稿用紙にきちんと「原発は必要か」というテーマで書くように言ったが、やはり半数近くが「必要」という意見である。彼女たちは快適さを失うこへの抵抗感が強いと見られる。

 ジブリのスタジオが原発の電気は使わないというメッセージを建物に掲げたそうである。原発問題を、宮崎駿は「文明論」として考えないと言っているらしい。今、『天空の城ラピュタ』の資料作りをしているのだが、最後の場面、ラピュタ城の姫であるシータに同じ一族であるムスカが迫る。シータが次のように言う。「いまラピュタがなぜ滅びたのか、わたしよくわかる。ゴンドアの谷の歌にあるもの。土に根をおろし、風とともにいきよう。種とともに冬を越え、鳥とともに春をうたおう…。どんなに恐ろしい武器をもっても、たくさんのかわいそうなロボットをあやつっても、土からは離れて生きられないのよ」それに対して、ムスカは次のように言う。「ラピュタは滅びぬ。何度でもよみがえるさ。ラピュタの力こそ、人類の夢だからだ」。

 ラピュタを「原発」に置き換えると、この両者の台詞、ほとんど今起きている問題を語っているとも言える。

 が、これは物語だ。シータは生き残り「ラピュタ(原発)の力は人類の夢だ」と言い放つムスカは死ぬが、実際ムスカはそう簡単には死なないだろう。宮崎駿は『もののけ姫』で、女達に「たたら場」を運営させる。ある意味ではこの「たたら場」はラピュタの力であり、人類の夢である。つまり、宮崎駿は、原発を女達に管理させたということだ。男に任せたらムスカが生き返るからである。女たちなら何とか許せるということだろうか。

 「ラピュタは滅びぬ」という言葉は重い。大変リスクのある言葉だ。現実では、土から離れて生きられぬものたちが、ラピュタの力を夢見、ラピュタの力を手に入れた者達が、「土から離れては生きられない」と反省するのである。「土から離れては生きられない」ものが「土から離れては生きられない」と語ったら、それは選択肢のない自分の宿命を仕方なく受け入れた言い方になる。現実とはこういうパラドックスに満ちているのだ。

 そう考えると、『天空の城ラピュタ』を夢中になって見ていた少女達が、少し大人になって、原発がないと困ると書くことは、物語と現実との区別をわきまえ、このパラドックスをしたたかに生きているのだ、という気がするのである。むろん、それは、彼女たちが、放射能による避難区域に住んでいない、ということでもある。