益田勝実を引きずる2011/01/24 01:04

ようやくこの週末で「益田勝実論」を書き上げ、今日(日曜)原稿を送った。年末から一月にかけてこの原稿にとりかかりきりで、なんとか一つ仕事を仕上げたというところである。

 ただ、短歌の時評の締め切りが過ぎているのでこれを近日中に書き上げ、月末までにもう一本、二月には二本の原稿がある。研究論文もあるがそうでないのもある。体系立てた研究をしなくてはいけないなあと思いつつできないでいる。今年も相変わらずである。

 「益田勝実の仕事」五巻を読んで見えてきたのは、彼は唯人間論者だということだ。唯人間論とは私のネーミングだが、文学の価値を、どのような人間が描いたのか、どのような人間が描かれているかで判断していく。益田勝実の文学研究への評価は、作品分析というよりは、作者や表現の担い手の、歴史社会的な人間像を鮮やかに描き出したことにある。

 神を祀る儀礼においても、神ではなく祭祀者の方に焦点をあてる。つまり、神を祀るために「忌み籠もり」する期間があって神が顕れる。それはその神を祀る者が神と見られるということでもある。『秘儀の島』でこのような祀る者のありかたを論じたが、実は、それは、文学への評価でも同じなのである。

 文学という神は常住するわけではない。その神を祀る者が忌み籠もる、つまり、憑依することを通してこの世にあらわれる。とすれば、文学を論じることは、その表現世界を論じることではなく、文学を祀る者である憑依する人間を論じなければならない、それが益田勝実の論理なのである。

 そんなことを書いてみた。益田勝実の活動がとても幅広かったのは、彼が文学作品の内部に憑依する人ではなく、常に文学作品に憑依する「人間」に興味を抱いていたからだろう。

 文学研究者というのは、ほとんどが自分と作品だけの世界に閉じこもる。だから、外部としての歴史や社会と切り離して作品が読める。が、益田勝実が人間をそこに介在させたとき、その人間は作品の外部に位置するから、歴史や社会を負う。この方法は、文学の世界を愉しむ方法としては不満が出るが、文学を社会に開いていく方法としてはそれなりに効果的である。

 明日からは年度の最後の授業やテストがある。そっちに頭を切り換えなくてはならないのだが、益田勝実論のことを以上のように思い出しながら書いていたら、少し書き直したくなった。まだ益田勝実を引きずりそうである。

                          文学の神を探して冬深む

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