ユタの身体地図2010/11/10 00:57

 日曜の学会の大会は知り合いのSさんが発表者ということもあって、楽しみにしていた。発表は、これまでの研究テーマを整理しながら、沖縄のユタが沖縄の政治的社会的な痛みを身体の痛みとして感受する、ことを、身体地図としてイメージ化することができるというものである。例えば、沖縄本島を人間の身体の図にして、真ん中のお腹の部分に普天間がある。ユタは普天間をお腹の痛みとしてあらわす。それをSさんは身体地図に読み替えていくのである。ユタが身体地図をイメージしているわけではない。イメージするのはあくまでSさんなのだが、ユタの聞き書きから身体地図をイメージするという試みの面白さを、どう伝えるのか、そこがうまく伝えることが出来ていなかった気はするが、いろいろ考えさせられる発表ではある。

 加賀野井の『メルロー=ポンティ』を読んだところだが、結局、Sさんの言う身体地図とは、メルロー=ポンティの言う、世界内存在における身体の在り方によく似ていると思う。メルロー=ポンティは、身体とは世界に対して開かれた外延であって、身体の知覚は、意識とは別に外延的世界を構築するという。例えば、車を運転をしていると身体の外延は車のボディと分かちがたくなる。道具を使っているとき、道具はいつのまにか手の延長となる。これは意識としての知覚とは別の身体による世界の把握の仕方である。

 身体という知覚は、知の把握とは違う世界了解の仕方を持っている。それは、言語化される前の無意識の領域と重なるものだろう。ユタの現実の社会に対する感応を、政治的あるいは社会的な記号としてとらえて解読したとしても、そこには象徴的な記号が並ぶだけで、解読者のイデオロギー的言説を繰り返すことになってしまうのがおちだ。が、それを、身体の知覚のまま伝える知の工夫があるならば、それはユタの世界の把握に近づけるのかもしれない。Sさんの身体地図は、そういう可能性を持っている。

 そんなことを考えていたのだが、もう一つ気付いたことは、人間と自然との関係を、対立や共生といった手垢のついたタームで語らない方法はないか、とここのところ考えていたのだが、Sさんの言う「痛み」はなかなかいいのではないかと思ったのである。環境と文化というテーマで来年シンポジウムを考えているのだが、どうしても、二項対立的な構造から抜け出せない。が、「痛み」を入れてみると、環境と文化、つまり、自然と人間もいいが、その関係は、かなり違って見えてくる、という気がしてきたのだ。

 大会が終わって思わずSさんに、来年のシンポジウムにお呼びするかもしれない、と言ってしまつた。まだちゃんと企画も立てていないのにである。とにかく収穫の多い大会であった。
 
   冬めく日からだの痛みを地図にする