宮崎アニメは何故面白いのか2010/10/19 23:39

 昨日今日と家で仕事。明日から某短大へ第三者評価の実地評価に行くので、その準備である。去年、私の勤め先はやはり実地評価を受け、私がその責任者であったが、今度は私が評価を行う立場になったというわけだ。書類や資料を読み込み、きちんとした評価が出来るよう準備。夏の間に一応は目を通したが、やはり本番になると、力も入る。評価を受ける方は、たぶんかなり準備して大変であったろうから(私もそうだったので)こちらもそれなりに緊張するというわけだ。

 一方、宮崎駿を論じた本を一冊読了。それにしても、宮崎駿を論じた本で、宮崎駿のアニメをすばらしいと評価する本がほとんどないのはどうしてか。この本もそうであった。褒めるのはだいたい「風の谷のナウシカ」で、「もののけ姫」など酷評である。それ以降の作品もほとんど同じ。

 思うに、宮崎駿の作品というのは、徹底して曖昧である、というところに特徴がある。ストーリーに所々破綻があるのは誰もが指摘する。宮崎駿のアニメのメイキングなどを見ると、宮崎は途中でけっこうストーリーを変える。大きな物語の骨格に従いながら、当たり前すぎてまつらないとストーリーをけっこう変えていく。こういう作り方がストーリーの矛盾や説明不足を生んでいくのであろう。そのため、ストーリーのメッセージ性が何となく曖昧になってしまうところがある。

 「風の谷のナウシカ」はある意味で戦闘少女の走りであり、おたく達がかなり萌えたアニメだが、宮崎はその後戦闘少女を描かなくなってしまう。セカイ系の流れに迎合したくなかったのだと思われる。何故いつも少女なのか、とは必ず出る問いだが、やはり、時代的におたく系の感性を持っていることは確かだろう。おたく系とは、父性との対立(父殺し)を最初から放棄した人たちである。彼らを守るのは母親であるが、その母親を克服しないと自立出来ないという矛盾を抱え込んでいる。従って、母親のいない少女、すなわち誰にも守られず、いきなり世界の危機と向き合う少女に感情移入することで、矛盾した母性との関係を克服出来ると思う、というわけだ。しかも、その少女の愛を一手に引き受ける男の子に感情移入すれば、少女は母ともなる。まさに、おたくにとっての母の両義性を少女は体現しているというわけである。

 この母との関係を宮崎駿もまた持っていると思われる。宮崎作品の主人公が少女である理由はこういったところに求めることができるだろう。だが、宮崎駿はおたく系のアニメ文化に対する嫌悪がある。これは、ある意味自己嫌悪に近いところもあるが、当然、その嫌悪感は作品に反映されているはずで、そのことも、いわゆるおたく文化が作り出したジャパニメーション的作品でもない曖昧さの理由になっていると思われる。

 宮崎駿は徹底してディズニー的なエンターテインメントに徹しきれない。かといって文芸路線でもない。「もののけ姫」のようなややエコロジスト的イデオロギーを意識するが、あえてそれを肯定せず中途半端になる。

 以上の他にも宮崎作品の曖昧さはかなりあげることができそうだ。が、それでも宮崎作品は圧倒的な面白さを持っているのは何故か。作画のうまさや細かなストーリー運びのすごさをあげる評論家は多い。そのことは、整合性のあるストーリーや明確なメッセージ性などなくてもアニメは充分に面白く作れるということだが、ただ、やはり、それでも宮崎作品の面白さは語られていないと思う。やはり、この中途半端さにむしろ面白さの理由があるのかもしれない、などと思うのだが。

 作品の評価とは、その作品にある意味を見いだしていくことだが、宮崎作品に意味を見いだそうとするとどうもうまく見いだせない。だから、これはつまらない作品だと評価するが、みんなが面白いと騒ぐものだから自信がなくなり、あらためて見直すとけっこう面白い。それで余計どう評していいかわからなくなる。私が読んだ本にそう書いてあった。なるほどなと思った。私もそうだったかもしれない。 

膝掛けは在処にあるやらやや寒し