「かわいい」とは何か2010/10/16 22:40


 勤め先では例年の如く学園祭が始まり授業はない。私の場合、来週は、出張があるので一週間授業がない。ただし、その分補講をしなければならないのが辛いところである。

 学園祭では、これも例年の通り、読書室活動の一環として、学生が中心となって古書市を開いている。今回で三回目である。とにかく古本を集めるのに苦労した。毎年出しているから、さすがに古書に出す本がない。それでも、何とか格好がつく程度には本が揃った。教員の皆さんに頼んで供出していただいた。売り上げはユニセフに寄付している。毎年感謝状をもらっている。

 今回は、展示本コーナーに私の妖怪関係の本を並べた。学生の関心が高いので集めていたのだがそれなりに揃ったで、展示したというわけである。教員の趣味でも研究でもいいからある分野の本をそろえて展示する、これは今年の新しい企画である。といってもいつも思いついた私がやっているだけだが。

 サブカルチャー系の読書が続いているが、四方田犬彦『かわいい論』(ちくま新書)、内田樹『街場のまんが論』を読む。二冊ともあっというまに読めたが、「かわいい論」はきちんとした文化史系での論で、勉強になった。内田の論は、いつものようにブログの文章を集めたものだから、勉強になるというものではない。ただ内田樹はおたくではないらしいが、少女マンガ好きだということはよくわかった。

 「かわいい論」で面白かったのは、「かわいい」と「美しい」の違いや、「きもかわ」は何故成立するのかという論点である。「きもい」と「かわいい」は対極にある概念なのに融合するのは何故か。「美しい」と「醜い」はそう簡単には一つの言葉に合体しないだろう。どうやら、「かわいい」と「きもい」というグロテスクさと隣り合わせの概念であるということだ。

 四方田はそれをフロイトの『不気味なもの』という論がヒントになると言っている。一般的に女性器を人はグロテスクなものとみなしているが、それは自分の起源の場所であるにもかかわらず、その事実が抑圧され隠蔽されてしまったために、親近感が反転して不気味に思えるのだという。つまりグロテスクだと思われるものには、人々の無意識的な抑圧の痕跡があるという。

 例えば、赤ん坊は「かわいい」と誰もが思う。だが、赤ん坊とは、われわれが一般的に人間だとイメージする人間の顔と身体から逸脱した畸形の顔と身体をもった存在である。従って、描きようによってはとてもグロテスクな顔や身体になる。例えばルネッサンスの聖母子を描いた絵画における赤ん坊はよく見るとグロテスクに描かれている。ところが、当時それを人々は愛らしいとみなしていた。つまり、そこには畸形と逸脱の身体を「かわいい」とみなす薄皮のような約束事があるからであると四方田は述べる。
 
 映画ETのエイリアンはどうみてもグロテスクである。が、映画を観ているうちに人々はグロテスクさを忘れかわいいと思うようになる。それは映画のストーリーが、「かわいい」とみなす薄皮のような約束事を作り上げて観客に刷り込んでいくからである。つまり、ETはきもいから次第に「きもかわ」になっていくというわけである。

 「かわいい」と「美しい」の違いは、対象との距離感の違いではないか。「かわいい」は触れるような近さがある。「美しい」はそれよりはだいぶ距離が空いている。触れるところまで近づくと、隠蔽されていたグロテスクさにも触れてしまうということになる。逆に、グロテスクとみなす対象に思い切って近づいてみれば、心理的な操作によって「かわいい」とみなす薄皮をかぶせて「きもかわ」くなるのだ。距離が離れているとこの操作が出来ないということである。

 内田樹の本で面白かったのは、人間のエロスに関するところである。内田は、性的な抑圧から人間的自由を回復するという発想は成立しない。何故なら、人間とは性的抑圧の効果として成立したものだからだ、と言う。言われてみればその通りである。従って、人間の主体性にエロスを統御するような能力があるはずがない。エロスを統御しているのは、人間の本性ではなくて、抑圧的な諸制度そのものである。その制度に人間が従っているのは、性的抑圧を人間的価値の形成とリンクさせてきたからだという。

 この論理を「かわいい」に適応すれば、「かわいい」は人間的価値形成に反する、ということになる。つまり「かわいい」は「美しい」よりかなりエロス的な概念であるからだ。日本の「かわいい」の使われ方が自分より弱い者に対する性的な感覚を微妙に内包させた支配の意味を持つことを考えると、そのことがよくわかるであろう。ただ、このエロス性は、成熟した女性が放つエロス性とは違う。男女という性的な分離以前の幼児的な段階における緩やかな抑圧によって顕れる、他者との未分化な感情とでも言うべきものだ。男女に分化したレベルでのエロスは、他者との同一化をエロスの努力目標とみなすが、「かわいい」は、他者とすでに同一化してしまっていることの同意を自他に強いる言葉である。
 
 いい大人が「かわいい」言葉を連発し、「かわいい」と呼ばれることに嬉々としている光景というのは、社会に、エロスを抑圧する諸制度が機能していないか未発達ということになる。つまり、これが今の日本の文化の評価ということになる。が、これは、ある意味では西欧的な人間の価値観をそのまま当てはめた言い方である。西欧では、「かわいい」は、未成熟だとみなされる。いい大人が使うべきことばではない。幼児的な段階を抑圧し、成熟することで、エロスを制御しながら大人の恋愛をしろという社会である。

 が、日本は「かわいい」を卒業せぬまま、大人の段階にまでいってしまう。だから、「かわいい」が文化になる。これは、日本人が未成熟だからか。ここからは日本文化論になるだろう。性的抑圧を人間的価値形成にリンクさせてきたという内田の論からすれば、果たして日本人は、人間的価値形成において西欧ほどうまくいかなかった民族なのか。

 仮にそうだとして、それで西欧に比べて特に日本の社会にとって不都合なことがあっただろうか。私には不都合なことがあったとは特に思えない。むろん、内田の言ってる原理的なことが違うと言うことではない。これは「程度」の問題かもれしない。日本はおそらくは抑圧の程度がとても緩やかなのだ。

 源氏物語で、光源氏が紫の上を「かわいい」という段階から女へと見なしていくその別の位相への変換点が実に曖昧である。私はこれは、性的抑圧の諸制度が実に緩やかにしか機能しない日本の有りようを象徴的に示しているように思えるのだ。

  抑圧のなきがごと今日の空高し