「ゼロ年代の想像力」を読む2010/10/13 11:00

 宇野常寬『ゼロ年代の想像力』を読了。最近評論を読まなくなって久しいが、この本はお薦めである。1978年生まれだから、まだ若い。が、評論としてはかなりのレベルである。これだけ読み応えのある評論を読んだのは久しぶりだ。東浩紀の評論は、ポストモダン以降の状況を見事に整理していてその手際にさすがと感心させられるが、宇野常寛の評論は、むしろ感動するところがある。なんて言うのか、状況を整理するというスタンスではなく、どういう生き方をすればいいのか、という問いかけを直球でぶつけてくる迫力があって、とにかくその説得力は並ではなかった。

 ポストモダン状況とは、イデオロギーや国家といった大きな物語の喪失であり、個々が小さな物語に閉じこもった時代と言えるだろう。東はこのポストモダン状況のゼロ年代の推移を「まんが・アニメ的リアリズム」から、「ゲーム的リアリズム」ととらえる。

 まんが・アニメ的リアリズムは、言わばキャラクター小説のリアリズムだという。衰退した大きな物語に代わって、データベース化した物語の集積から、物語の享受者はキャラクターを抜き出してそれぞれの小さな物語を作りその世界に閉じこもる。例えばエヴァンゲリオンはキャラクターのデータベースとされ、おたくはそのデータベースから例えば綾波レイといったキャラクターを抜き出して、そのキャラクターを原作とは別のそれぞれのおたく達の小さな物語の主人公にしていくのである。これをデータベース消費と東は呼び、そのデータベース消費によって作られるおたく系のそれぞれの小さな物語に、リアリズムを見いだしている。

 例えば、「セカイ系」とは、大きな物語を失った状況下で、戦闘する少女というキャラクターをデータベースから取り出し、少女の恋愛と世界の危機を救うというあり得ない設定の物語のことだが、現実のリアリティを失った引きこもりおたくが、言わば自分の存在論的な現実感覚をキャラクター少女との恋愛と世界の終末という組み合わせに重ねた、ということになり、東はそこに新しい想像力の形を見いだす。ゲーム的リアリズムは、さらにすすんで、物語の中の人物の視点と、プレーヤーの視点と、その物語の設計者の視点とを自在に移動する物語享受者の自在な立場の移動が、リアリティをもたらすとする。つまり、固定的な物語はすでに存在しなく、ある物語で主人公が死ねばプレーヤーの視点に立って別のプレー(物語)に移動する、また、その物語の設計そのものを変更する、というように、終わりなき物語を常に変更しまた反芻する、というところが、現代の状況そのものを映し出しているのであるというのだ。

 この東のポストモダン状況のとらえ方に対して、データベース消費というとらえ方は評価しつつも宇野は真っ向から批判する。大きな物語を失った後に訪れた世界とは、それぞれが小さな物語に島宇宙のような共同体として閉じこもり、他者を排除することでその共同体を守り抜く戦いの時代になったのだと言う。つまり、引きこもっていられる状況ではすでになく、生き残りをかけて否応なしに何らかの決断を強いられながら競争しあう時代なのだという。それを決断主義とかバトルロワイヤル的状況と述べる。

 東浩紀は、小さな物語に引きこもる若者を、新しい時代の存在の仕方としてやや肯定する所もあったが、宇野はその評価はまったく間違いだと言うのである。例えばセカイ系に対する評価は、少女に決断させて自分が益を得るといった差別的決断主義とも、潜在的には女性への差別的なレイプファンタジーに過ぎないとかなり厳しい。つまり、男の子は何も決断せず、身代わりに少女を戦わせてその少女を恋愛で支配するというご都合主義の物語であり、父性という大きな物語を失った代わりに新たな母性支配の物語が顕現しているのだという。この辺りの批判は、ジェンダー論に偏り過ぎているところがあるが、説得力はある。

 現代の排除型コミュニティに閉じこもるもの同士のバトルロワイヤル的状況をどう克服するのか、というのが宇野常寛の問いである。宇野は、バトルロワイヤル的状況を避けられないのならそれを引き受け、そこから暴力性を排除し、穏やかに開かれたコミュニティを作っていくしかない、と述べる。例えば、その糸口を「木更津キャッツアイ」やテレビ版「野ぶた。をプロデュース」に求める。そこには、作られたキャラクターの共有にではなく日常そのものの中に生き生きした関係が構築できることを示しているからで、それを「ゲームの勝利では購えない(有限であり入れ替え不可能な)関係性の共同体を獲得する可能性が提示されている」と述べる。

 この結論の出し方はある意味で古典的でそれ故に信頼できるものである。東と宇野の違いは、こういうことだ。東は、人間の身体や生活の常識的感覚から乖離し、その人間を消費対象として翻弄していく時代状況の分析と整理に重きをおき、その状況に応じて人間の想像力は変わっていくしそこに面白さがある、というようにスタンスを定めている。これは、人間の視点というよりは時代状況という超越的な視点に立つことであり、アカデミズムの評論家だなあと思わせる。

 それに対して、宇野は、時代状況の分析は同じだとしても、あくまでも当事者における身体や生活という視点から発想する。つまり、当事者の想像力は、身体や生活に縛られるものであり、時代状況がどんなにそこから乖離しようと、結局は、人間の歴史的な営為そのものを決定的に変更することなどあり得ない。むしろ、生存するための防衛機制によって排他的になるだけだ、という覚めた見方である。

 感心するのは、排他的になる現代の若者(だけではないが)の共感の上に、どう克服するのかという論を真っ向から立てようとしてることだ。東浩紀にはこのような積極的姿勢はない。状況の新しい展開にわれわれは変わっていかざるを得ないのではないか、というような曖昧な態度でしかない。が、宇野は、はっきりと否をつきつける。その解答は「関係性の共同体を獲得する」というもので、昔全共闘の頃われわれが政治活動の中で唱えていたようなことなので、思わずこんなところに復活したのか、といささか驚いたが、いずれにしろ、とても穏やかで、地味である。が、結局は、ここに戻るしかないのではないか。

 サブカルチャーの勉強を面倒だなあと思いながら続けているが、宇野常寛を知ったことはラッキーであった。若い人にも、しっかりと人間を見据えたところから考えていく人がいるのだなあと、いささか感動したのである。
 
案山子など気にせぬ雀ばかりなり