遠野物語論2010/09/23 01:06

 昨日(火)は最初の授業。一限目からである。いきなり朝のラッシュアワーから後期は始まった。しかも、その日は、夕方から某学会の運営委員会。この会合が終わったのが夜の九時半。それから飲み会になって、へとへとになってその日が終わるか終わらないかの時間に帰ってきた。

 Iさんから徳島の酢橘が送られてきた。中国へのシンポジウムにご一緒した方である。私が事務局としていろいろ世話をやいたということなのであろうか。これも何かの縁である。助手さんからも神戸のお土産ですと行ってクッキーをいただく。私はいつも人からもらってばかりで、恐縮するばかりである。

 そういえば、尖閣諸島の事件が一月早かったら、わたしたちの中国でのシンポジウムはなかったろう。危ないところであった。中国は、まだまだ、文化や経済の交流が政治によって直接コントロールされる国なのだ、ということを実感。もう大国なのだから品位ある行動をすべきだと思うのだが、それにはまだ時間がかかりそうである。

 運営委員会では、古代特集の企画の案がいろいろとたたかれ、なかなか決まらなかった。近代から古代までの研究者が集まっている学会なので、テーマを出すと他の時代の研究者からいろいろと突っ込まれる。そのテーマによって読みがどう変わるのかとまで言われる。毎年のように、新しく読みが変わるようなテーマなど出せる訳がないが、批判する方はそこは気楽である。テーマを考えるというのはとにかく大変なことである。

 今日(水)は、午後の授業。民俗学である。憑依の文化論というタイトルでシャーマニズムに関する授業。最初でちょっと力が入って、やはり疲れた。

 紀要論文を何とか書き上げた。50枚前後になった。もっとも、作品の引用が多いので、それほど長い論ではない。神隠し譚を扱った。神隠し譚のいろいろのパターンを集めてみると、結局、この世から出離することの痛切な感情や、あの世の存在になってしまうものに対するこちら側の畏れ、とかが、描かれていることがわかる。

 神隠し譚は断片的な話だが、それを集めてみると、この世から離脱しあの世の存在になってしまうまでの境界状態における人間の様々な葛藤といったものが描かれている。たとえば、それは、古事記神話の黄泉国訪問神話と同じなのである。

 イザナミは夫イザナキとの別れに葛藤する。が、あの世にの存在になってしまうと、今度はイザナキがイザナミを恐れる。遠野物語の神隠し譚は、このストーリーを切れ切れながらも描いているのである。それを遠野物語の物語性として論じてみた。

      人の縁阿波の酢橘をもらいけり

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