いろんな私2010/08/09 00:41

 山小屋は涼しい。夜は寒いくらいだ。仕事をしようといろいろ本や資料を持ってきてはいるが、なかなかはかどらないのはいつもと同じだ。

 今日は、午前中チビの散歩でちょっと遠出。車山スキー場まで行って、ソフトクリームを食べて帰ってきた。日曜なのでさすがに人は多かった。曇っていて涼しかったので快適に歩けたが、帰りはチビもバテてきた。すぐに動かなくなって草むらに横になってしまう。困った犬である。

 短歌の時評を中国に行く前に書かなきゃならない。何かネタはないかと考えているのだが、さすがになんにも浮かんでこない。二ヶ月に一本の割合で書いているのでネタを探すのが大変である。最近歌集もあまり送られてこないので、歌集評というわけにもいかず、短歌という定型詩についての考察を続けているのだが、とりあえずそのような内容を書くつもりだ。

 九月には「遠野物語」で紀要原稿を書くつもりだが、その資料を読んではいるが、こちらもアイデアが浮かんでこない。先日ある出版社から、共著だが異端の神々たちについての原稿依頼があった。七十枚近くの原稿である。締め切りは九月末である。いくらなんでも、それは無理だ。これから中国へ行き、帰ってきたら紀要の原稿がある。たぶん原稿料は悪くはないとは思うが、そのために紀要の原稿をすっぽかすわけにはいかない。というわけで断った。滅多に断らないのだが、さすがに今度ばかりは断らざるを得なかった。

 短歌時評は、短歌における私の問題について書こうと思っている。短歌と自由詩の違いを言うときに、短歌には私があるとよく言う。ところが、この私について説明しようとすると、なかなか難しいのだ。この私は、作者のことでもあるし、言葉の主体でもあるし、あるいは、作中の主体でもある。むろん、短歌に限らず言語による作品にはいろんな位相の主体(作者・語り手・主人公等)が存在するものなのだが、短歌はそれらの主体を「私」と一括して形容してしまう。そこが短歌の面白いところであるが、だからなかなか論じにくいというところがある。

 作者も語り手も作中の私も、曖昧につながっているという言い方をしてもよい。さらに短歌という言語行為そのものを成り立たせる何かもまた私という言い方をしてもよいかもしれない。ここまで来ると、私は、短歌という言語行為を成立させる無意識そのものである。意味としての私がいて、一方で意味づける行為そのもののシニフィアンとしての私がいる。それは本当は私なのではないかもしれないが、私という言い方をするとみんなわかった気になる、というところに短歌の特徴がある。

 それは作者であって作者でないということであり、語り手(歌い手)であって語り手でないということであり、作中の私であって私でないということである。あるいは、それらすべてであってすべてでないということである。何を言っているのかわからなくなってきたが、要するに、この短歌における私、という言い方をしたとき、その私は、いろんな解釈が可能なじつによくわからない私だということである。とりあえず、そのことだけがわかればいいのではないかと思うのだ。

                     盆のころいろんな私がさまよえる