夏風邪を引いたようだ…2010/06/30 22:53

 どうも夏風邪を引いたらしい。仕事が忙しく、それにワールドカップのサッカーで寝不足気味。さらに、会議で長時間クーラーで冷やされたのがいけなかった。かといって、休んでいられる状態でもない。いつも忙しいが、最近は、かなり来ている。ブログを書く暇もない。

 先週の土曜日は、フェリス女学院大学に学会の研究発表大会。相鉄線の緑園都市で降りる。成城学園前からは相模大野で江ノ島方面に乗り換え、湘南駅で乗り換える。割と早かった。8本の発表かあり、委員なので全部聞いた。最近、古代関係の学会に出なくなったので、こういう研究発表はけっこう新鮮だった。若手の発表も聞けて良かったが、昔と違って、みんな方法的な冒険をしなくなったな、というのが印象。恐らく、方法的な冒険そのものが最近は流行らなくなってきたというとなのかもしれない。

 今古橋さんの『日本文学の流れ』を詠んでいるのだが、とてもシンプルに文学史をおさえようとしていて、なかなか面白い。どちらかというと評論と言ってよいが、一貫しているのは、文体の問題と、文学はいつの時代にも何を描こうとしているのか、という問いで、結局、文学史ではなく、古橋文学論になっているところが、面白い。

 この本私の周囲ではあまり評判が良くない。たぶん、古橋さんへの期待が、この本では満足できないということなのだろう。かつて先鋭な方法論によって研究をリードした古橋さんのイメージをまだみんな持っているようだ。だが、よく聞くと、批判する人はちゃんと読んでいない。全部読まなくてもわかるという言い方である。が、やはり読んでみないと、全体に一貫して流れている古橋流文学観を味わえない。例えば、文体は常に新しい時代では口語をめざすが、次第に文語体になってしまう。そういうような論理構成を使っている。これはなかなか面白いとらえ方だと思う。
  
 その意味では、こちらが方法的な何かを考える上でのヒントがけっこう隠されている本である。本人がどこまで自覚的かどうかはわからない。それこそ口語的な文体で書かれた文学論だが、私などは口語的であることで逆にヒントめいた余剰の言い方が溢れるのだと思っている。つまり、方法論ではなくて、自分の文体を一つの方法として文学史を語り出したということである。こういう語り方は、やはり、それなりの老成が必要で、古橋さんもその域に入ったということかもしれない。それにしても、こういう本を刺激的に読むことの出来る若手の研究者がいて欲しいものである。
 
 ついでに、日本対パラグアイの試合はPK戦まで全部見たが、PKは残酷なゲームである。誰かがミスをすれば決着という戦い方で、ミスをするまで続けるのだから、必ず犠牲者が出る。今回はその犠牲者が駒野だったわけである。この試合、日本は負けてもよく頑張ったとみんなから誉めてもらえるが、パラグアイが負けたら、たぶん選手は国に帰ってぼこぼこにされるだろう。その差がやはり出たのではないか。

 それから感じるのは南米の選手のボールを扱ううまさである。日本の選手はとうていかなわない。日本が上回っていたのはよく走ることくらいだ。ここまで来るとこれは文化の問題なのだとさえ思われる。野球で日本の文化を語れるが、サッカーではまだであろう。サッカーで日本人論が語れるようになったら、日本はかなり強くなるのではないか。

                        夏の夜に重荷背負いて球を蹴る