無縁社会2010/04/01 23:27


 自宅へ戻ったら、マンションの庭の桜は満開である。隣の公園の桜も満開で、今が一年で一番眺めのいい時であろう。野川沿いの桜もほぼ満開である。ただ風が強くて、咲いたばかりの桜がその風に花を散らせまいと抵抗している。

 今日から学科長でないので、少し楽になる。学科長だったら当然今日は出校だ(私の場合ですが)。明日は入学式。これも、学科長でないので、壇上で新入生に向かって挨拶することもしないですむ。

 三月末締め切りの原稿が、届いていない。私が編集をしている単行本の原稿だが、何人かがまだである。むろん、想定の範囲内ではあるが、これから催促しなくては。むろん、私も原講話書かなくてはならないのだが、編集者の特権として私の締め切りは一番遅くしてある。

 学会関係の仕事がいくつか重なって、けっこう大変である。10日の穂村弘とのシンポジウム、24日、25日の御柱シンポジウム。特に御柱シンポジウムは地元で宣伝されているので、いい加減なシンポジウムにはできない。地元のケーブルテレビがシンポジウムの映像を撮るという話もある。

 とにかく、明日から諏訪は山出しで盛り上がっている。上社の木落とし坂を見たが、正面には桟敷席が作られ、すでに用意万端整っている。あのかん高い木遣りがあちこちで流されている。

 週刊「ダイヤモンド」で「無縁社会」という特集をやっていておもわず買ってしまった。以前にやったNHKのドキュメント「無縁社会」のスタッフによる座談会が載っている。身元不明の死者を法律用語で「行旅死亡人」と云う、というのはこのブログでも書いた。この特集には統計がいろいろ載っているが、性別生涯未婚率では、2005年、女性が7.25%なのに対して、男は15.96%である。圧倒的に男の未婚率が高い。ちなみに、1985年では女の未婚率の方が高かった(5%)。1985年を境に男の未婚率が急に上昇していく。

 おそらく、バブル崩壊後の不景気によって、男の正社員率や、年収が減ってきたこと、親への依存が高まったこと等が男の事情にあり、女の方も男を経済力の面で吟味するようになってきたという事情もあるだろう。この男の未婚率の高さが高齢化とともに、孤独死や無縁死を生んでいるというわけだ。

 2チャンネルに飛び交う独身の中年世代を揶揄する言い方に「孤男」「毒男」「喪男」というのがあるそうだ。女の場合は「おひとりさま」という言い方があるが、男はひどいものである。男は女に比べて縁を作ることが不得手である。女同士がコミュニティを作るようには男は作れない。むろん、これは男だけの問題ではない。

 アメリカは日本よりも人を孤独にする社会だが、そのせいだろうか、国民一人あたりの、所属する団体の数が日本の三倍ある。教会を中心としたコミュニティのシステムがけっこう隅々に行き渡っているのである。地縁・血縁の壊れた日本では、まだまだ公共的コミュティを作るほどに他者とつきあえない。家族のような情の絆を価値として公共的な絆を信用しないのは、アジア的なのだろうか。地縁血縁が崩壊し、一方で公共的コミュニティも作れないという一つの現象がこの無縁社会ということなのだろう。

 面白いのは、無縁社会をどう生きるか、というアドバイスだが、二つに分かれることだ。一つは、積極的に人と交流して縁を作れ、という無縁否定派と、無縁死を自然なものとして受け入れろという、無縁肯定派。むろん、そんなに極端に分かれるものではないが、縁は作るものでもあるし作られてしまうものでもある。縁がないというのは、気づかないだけか、拒む場合が多い。積極的に縁を作れ、とまではいわないが、出来てしまう縁をかたくなに拒絶しないで、穏やかにつきあうくらいのゆとりは欲しい。無人島で暮らすのでない限り、縁は無いわけがない。その中にはきっと良い縁もある。そう信じて生きたいものである。

                        縁あれば花の下にて逢うことも

臨床的な時代2010/04/03 23:55

 今日はマンション恒例の花見。午前中から夕方までマンションの庭で住人が集まって、桜を賞でながら飲み食いする。私の部屋はイベント係なので、奥さんは大鍋で豚汁の準備をし、私は七輪に炭をおこす係り。

 やや肌寒かったが昨日のような風もなく、良い花見日和であった。全部の部屋が揃うということはないのだが、いつもの人たちが集まってくる。30年目を迎えるマンションで、住人は仲がいい。共同出資で住人達が建て主になって作ったマンションである。当初からすんでいる人はさすがに少なくはなったが、それでも、彼らを中心にこのマンションのコミュニティはしっかりしている。私たちは2年目だが、このコミュニティを楽しんでいる。

 ただ、そんなに部屋が広いマンションでもないので、子供が大きくなれば子供達は独立して、結局親だけが住むということになる。世代はだいたい私たちと同じかそれよりちょっと上といったところで、ほとんどが定年退職している。だから、花見でも話題は自然と老後の問題になるのは仕方がない。このマンションの庭に墓を建てようとか、空き部屋をデイケアの部屋にしようとか、孤独死を防ぐにはどうしたらいいか、一番若い住人が、一人住まいの老人の部屋を定期的に訪れる制度を作ろうとか、冗談半分の話がえんえんと続く。

 若い夫婦もすんでいて、赤ん坊と五歳の女の子が花見に参加していて、それが、この花見の宴の救いであった。それから、うちの犬のチビも参加。みんなから可愛がられていた。やはり年寄りだけの宴会というのはつまらない。子供というカワイイ存在が必要であると思った。

 夜、NHKでは「無縁社会」の続編を放映。以前やった「無縁社会」が30代、40代にかなり反響をよんだらしく、感想をツィッターに書き込んだ30代の人たちの取材を行っていた。

 今「無縁ビジネス」がはやっているという。驚いたのは、話し相手のサービスという仕事で、24時間、孤独な人のとりとめない話しを電話でただ聞いてあげるだけの仕事である。10分間1000円で、月20万円使うものもいるという。ほとんどカウンセリングであるが、カウンセリングは、一応心の病という要素が入り込むが、ここではただ寂しいという理由でなりたつ商売である。

 でもツィッターもブログも、そういうコミュニケーションツールはるだろうにと思うが、やはり、字ではだめなのだ。声で話し、相手の声という存在を確かめないと、孤独は癒されないのである。これは鷲田清一『聴くことの哲学』で指摘されている通りである。孤独を癒そうとか治癒しよう、という意味のある関係が介在すると、人は癒されない。ただ、何の意味もなく自分の声を聴いてくれる存在がそこにいる、ということだけが決定的に重要なのだ、ということである。
 
 いろいろと考えさせられたが、穂村弘とのシンポジウムに引きつけながら考えていた。近代の文学のメッセージは自分という存在の「かけがえのなさ」ではないかと穂村弘は述べるが、その「かけがえのなさ」は、実は、孤独や不安とセットになっている。つまり、孤独や不安を肯定的に反転させたのが、「かけがえのなさ」ということだろう。とすれば、それは、最初から矛盾を抱えている。というのは、孤独や不安に人は耐えられるはずはないからだ。つまり、孤独や不安の臨界点があるはずで、この「かけがえのなさ」というのは、その臨界点が見えない、という状況のなかで成立する、と言える。

 が、見えてきたらどうなるのか。「かけがえのなさ」なんて言ってられなくなる、ということである。自分の居場所あるいは、自分の声の聴き手を必死に探さなくては、生きていけないというのが、この臨界点でのふるまいなはずだからである。

 現代というのは、この臨界点が見えてきた時代なのだというように言えるだろう。「無縁社会」に大きく揺さぶられる若い人たちを見るとそう思える。いや何よりも、穂村弘もそうだし彼が選び出す「棒立ち短歌」の歌人達もそうなのだ。そういう意味では近代の文学が大事にしてきた価値観ではこれらの歌人を語れないということになる。なら、どのように語るのか。「臨床的」に語るしかないというのが私の考えである。

                        わいわいと死に方談義花の下

定型のシンポジウム終わる2010/04/10 23:51

 今日は学会のシンポジウムで、穂村弘とともに定型や短歌の話をした。さすがに疲れた。懇親会も途中で退席。飲み会は最後までつきあうほうなのだがこの所それだけの体力がなくなってきた。

 疲れたのは忙しかったからで、昨日はアジア民族文化学会の機関誌の発送の仕事で朝から作業をしていた。その準備と、シンポジウムの準備で、今週はやや睡眠不足気味が続いた。夕方五時にシンポジウムが終わったら、六時から会議だと学校から呼び出しである。おい嘘だろ!と叫びはしなかったが、仕方なく会議へ。会議の中身は、受講人数の少ない授業を開くか閉じるかを決めるというもの。なんと私の授業が二つも入っていた。最近人気がないのだ。むろん今年定員割れしたのと、日本文学のコースを選ぶ学生ががた減りしたのが原因である。

 受講人数が少なくて、閉鎖対象になる授業は私の属する学科が一番多かった。これを全部閉鎖するとカリキュラムが有名無実になる。結論として、極端に少ないのは別にして閉鎖しないということになった。つまり私の二つの授業は開かれることになった。よかったのかよくなかったのか。会議が終わってから、懇親会へ。みんな元気が良い。元気のないのは私だけのようだ。

 シンポジウムはまあまあうまくいったのではないか。ある研究テーマについての議論ではなく、定型という抽象的なことを、歌人と話をするのだから、学問的な綿密性や実証性から一番遠いところでのやりとりになる。しかも、私は、今日は、普遍性や整合性のある話はしないと断ってから話をした。

 穂村氏は、短歌実作における添削の例をあげながら、歌とはこういうものだと語っていく。私は、定型の様々な論じ方を試みるという内容。

 こういうやりとりは、アナロジカルな語り方の応酬になる。それをおもしろがる人と、新しい論理や発見が無いと怒る人とに分かれる。たぶんおもしろがれる人には良かったのではないか。そう思いたい。

 とりあえず一つをクリアしたので、一息ついたところだ。二週間後に御柱のシンポジウムがある。これからその準備である。来週から授業も始まる。二つの授業を人数が少ないので(それぞれ8名と9名。10名以下は閉鎖の対象となる)閉鎖してくれないか、と念じていたが、そうならなかった。来週からどうなることやらである。

 庭と隣の公園の桜がまだ散りきらないでいる。散った桜が地面に散り敷いてなかなか美しい。

      四月説明出来ぬこと考える

努力あるのみ2010/04/16 00:36

 しばらくブログを書く暇がなかった。今もあるわけではないが…。
 とにかく授業が始まって、さすがにその準備やら、御柱の資料作りやら、勤め先ではカリキュラムとかの仕事やらで、どうにか生きている、という状態である。

 今日は授業と会議で、へとへとである。会議は教員との会議が三つ、学生との会議が一つ。四時間ほどしゃべりっぱなしで、頭がふらふらしてきた。

 最後の学生との会議とは読書室委員の会議。教員と学生が読書室委員となつて、読書運動の企画をする。今度の新入生は15名も入ってくれた。読書室発足以来こんなに入ってくれたのは初めてである(もっともまだ三年目だが)。それだけ本好きな学生が入って来ているということだ。うれしいことである。

 悲しいことは、すでに学校に通えないという学生が何人か出てきたことである(まだ始まって一週間だというのに)。理由は、朝の電車のラッシュの人混みに耐えられないとか、教室で学生達の中に混じることが出来ないというものである。

 私どもの学校は都心の真ん中にあるから、朝ラッシュに会わないで来るのはまず無理である。そして、学校というところは、ある程度の集団の中に入ることである。これらのことに耐えられないことは、当然学校で学ぶことは出来ない。それなら、何故入学したのか。何とかそれを治したい、あるいは馴れたいと思ったからであろう。でも、実際に始まると、そう簡単でないことに気づいたということだ。

 一人一人に対応し、親と相談しながら何とか学校に来られる方法を一緒に考える。大変だが、これも教員の仕事である。ここまで努力しないと、今教育は成り立たなくなっているのだ。

 私の授業は今年はどういうわけか受講者数がみんな少ない。十名前後である。寂しいが、資料作りは楽だ。私語はさすがに少ないので目立たないが、その少ない学生に居眠りなどされるとさすがに落ち込む。少ないから目立つし、自分の技量のなさが情けなくなる。私は、予備校で授業のやり方、つまり授業の乗り方を身につけた。予備校はいつも百名以上だから、だいたいそういう大勢の学生の前でないと何となく乗らない、という癖がついていて、これがなかなか抜けない。乗った授業が出来ない(最近は体力がないので、どっちみち乗れないのだが)。が愚痴を言っても仕方がない。教員である以上、努力あるのみである。

 御柱の資料は何とか出来上がった。何部用意するのかと問い合わせたら、二百部だということだ。諏訪市博物館のホールの収容人数ということらしい。う~ん、やっぱり学会とは違う。たぶん満員になるという予測だ。二百部印刷して持っていくのは無理だ。資料を日曜日に直接博物館に持っていくことにした。

春なれど人と人とで疲れけり

シンポジウムの打ち合わせ2010/04/19 00:31

 金曜日に奥さんは山小屋へ。私は、学校で仕事。土曜は、学校で地方出身の学生懇談会と研究会。地方出身の学生懇談会は、今年で3回目か4回目。何年前から始めたのか忘れている。今年は25名参加で盛況であった。私の授業を三つもとっている学生がいて、その学生に出身地を聞いたら、せんせい私のこと覚えていてくれないのですか、前にも聞きましたよ、と言われてしまった。ごめん、ごめんと謝って、一通りみんなの出身地を聞いて、そこでまたもっと詳しく話してくれない、と聞き始め、またさっきの学生に出身地は~だったよね、そこ行ったことあるよ、と言ったのだが、見事に間違っていた。別の学生の出身地と間違えていた。結局、私はその学生の言うことをきちんと聞いていないと、証明したわけで、その学生に合わす顔がなかった。その学生きっと怒っているだろうなと思う。

 最近記憶力が鈍っている。老化なのかもしれない。言い訳すると、この週はほんとに忙しく、睡眠時間もとれなく、なんとなくぼうってしていたということもある。この歳になるとほんとに無理が利かないということが身にしみてわかってきた。

 懇談会が終わって、研究会へ。研究会は同じ建物の14階で行っているが、実は、この日のうちに茅野に行かなくてはならないので、24日からのシンポジウムの打ち合わせなどをして30分ほどで退出。そのまま新宿に向かい、梓に乗った。

 山小屋では、土曜の朝は、除雪車が来なくては車がでられないほど雪が積もったという。道路の雪はほとんど消えていたが、まだかなり残っている。それにしてもおかしな天気である。車窓から見る山梨や長野の風景は今が一番美しいのではないか。雪を抱いたアルプスの裾野には、まだ桜も咲いているし、果樹の花がとても華やかである。

 今日(日曜)、朝、張先生からメールで資料が届く。印刷して私の資料と一緒に、諏訪市博物館へと持っていった。館長とシンポジウムの打ち合わせ。会場は博物館のエントランスホール。要するに、玄関を入ったところにある広間である。そこに椅子を並べて講演会場にする。狭い感じがしたが、詰めれば300人は入るということである。180人くらいを想定しているという。詳しい打ち合わせをして、車で東京へ戻る。さすが、高速は混んでいた。

 土曜に「1Q84」の3を2冊買い、読書室へ入れた。話題の本は素早く入れる。これが大事である。青豆は死んでいないという説がある。3を読んでいないのでよくわからないが本当だろうか。村上春樹は無意識をブラックボックスやパラレルワールド、そして救済(神)の世界として、いろんな風に構造化してきたが、1と2とでは、そのような構造化を避けているように思われた。3は、その構造化があらわれるのだろうか。読む暇はいまのところなさそうである。

長閑なり寝入る犬をせめて撫で

人見知りの話2010/04/21 23:27

 今日は午後からの出校だったので、午前中野川沿いを歩いた。二子玉川の岡本民家園まで歩く。約50分。今日は暑かったせいかかなり汗ばむ。もう少し足を伸ばすと静嘉堂文庫である。ここには国宝の耀変天目茶碗がある。確か昔観に行った記憶があるのだがよく覚えていない。岡本民家園あたりは、国分寺崖線の終わりあたりとなるのだろう。緑が多く良いところである。桜はほぼ散ったが八重桜が咲いているし、アメリカハナミズキが咲き出した。藤の花も咲き出している。花の季節になったなと感じさせる。

 久しぶりに汗をかくような運動をした。昼柿の葉寿司を食べる。同じマンションのYさんの奥さんからいただいたという。Yさんは著名な翻訳家。翻訳不可能と言われていたジョイスを翻訳した人である。私はまだこの人を見たことはない。生活スタイルがまったく違うらしく、マンションの人もめったに見かけないという。奥さんはマンションの会計をやっているので用事で訪問したりすることがあり、話したことがある。きさくな感じの人だという。

 今日の授業は基礎ゼミナールである。他の授業は受講人数が少ないので結局この授業が一番多い。前回、自己紹介をしてもらったので、その感想を話す。自分を人見知りだといった人が多かった。人見知りは、内と外とのあいだのハードルが高く、それを越えるのに 心理的負荷が高い人のこと。このハードルを越える準備にどこかしら負担を感じるから、他人と話すのがおっくうになったり、見知らぬ人の前に出ると恥ずかしいと思う。私もそうである。こういう性格の人は、語学の習得には向かない。が、文章を書いたり本を読んだり思索にふけるのには向いている。だから君たちは、語学は苦手(このクラスは心理学コース、日本語・日本文学コースの学生で英語コースの学生はいない)かもしれないが、別な能力があるのだと語る。

 私の自己紹介だと言って、28歳で大学の二部に入り直し勤労学生だったことなどを話した。二部の話をし、大学の二部にはいろんな年齢の人がいる。社会に出てから勉強したくて入って来た人たちで、このことは君たちの年齢ですべてが決まってしまうということではなく、その気になれば何歳からでも勉強できるし、いくらでもリセット出来るということだと、語る。これもいつもの語りである。

 へとへとに疲れて帰って、そういえば明日某学会の会合があることを思い出し、頼まれていた査読の論文を読む。不可である。要の論理が強引すぎる。用例を丁寧に読みこなして導き出すという基本が踏まえられていない。新しい読みを導かなくてはというあせりが、 こう読んだら面白いという思いつきを、検証する手間を惜しんで論の骨子にしてしまう。私などもよくやることで反省することが多い。それでも、私などは自分の論理のおかしさに気づく力はまだある。この論の欠点はこの力がないことである。まだ若いひとだが、やはり、投稿する前に誰かに読んでもらうということは必要である。

                          春の日ざし歩いていて汗ばむ

シンポジウム終わる2010/04/26 07:52

 昨日(土)・今日(日)と諏訪市博物館で御柱のシンポジウム。かなり盛況であった。二日間ともそれぞれ二〇〇名弱の入場者があったという。計7名の発表があり、日本の古代の資料から、中国少数民族、アジアの柱立て、そして諏訪の資料と、広範な話が展開したが、それぞれ資料と映像が充実していて、なかなかボリュームあるシンポジウムではなかったかと思う。

 コーディネーターをやり、発表もやり、司会もやりで、さすがに疲れた。それにしても、諏訪の人たちはなかなか熱心である。発表者は一般向けなどと意識して手を抜くようなことはしなかった。それなりに難しいテーマの発表もあったが、みなさん熱心に聞かれていた。

 諏訪の御柱は、K氏が力説していたように、アニミズム的な世界をかなり抱えこんでいる。一方、シンボル化された柱は、聖樹の代理物であるが、要するに聖樹の見立てである。人工物の柱を聖なるものとして見立てることで、自然樹の霊力をさらに強めることになる。ただし、この見立てのプロセスは、山から里への移動を伴う。この移動にはかなりの労力がかかる。したがってそれなりの権力がないとこの移動は実施できない。その意味では、そのプロセス自体は、新しい世の人の営みである。が、同時に柱そのものは聖樹の面影を引きずる。従って、柱そのものがその抱え込んだ人と神との関係の多義的なありかたが、単一的なものに整理されずに残っている。そこが、御柱祭りのおもしろさであろう。

 このシンポジウムのために中国から張先生に来てもらい、佤族の木鼓とそれに付随する首狩りの話をしてもらった。面白かったのは、樹を切るときに樹に謝ることである。そして首を供えるからと神に約束する。樹と人とが命をかけて取引する様子がよくわかる。一方、神の側に属する樹をこの世に移動させる時には、様々な悪い霊も引き寄せる。佤族では鉄砲を樹にめがけて撃つという。これがなかなかすごい。一本、御柱では、薙鎌を柱に打ちこむが、これは樹の払いの儀礼で、鉄砲を撃つのと同じ意味であろう。ただ、御柱では、樹に謝るというのは無いようである。

 それから、古い御柱はどうなるのか、という話も出てきて面白かった。ふるい御柱は八龍社に引き取られる。御柱の死である。が、実はそれは再生の儀礼でもあるということも話に出た。いろんな発見があってとても有意義なシンポジウムであった。

                          樹の神を論議尽くして春になる

好奇心2010/04/28 12:36

 諏訪の御柱シンポが終わって、しばし休息。さすがに疲労がたまった。26日は、張先生と一緒に出校し、私は授業、張先生は神保町で書籍の探索。ついでというわけではないが、私の勤め先の大学と、寧波大学とで協定校の取り決めが出来ないか、国際交流室の先生と張先生を交えて面談した。いきなり協定校は無理だとしても、提携校なら可能ではないか、という返事であった。

 日本はこれから経済の分野ではアメリカよりも中国に依存して生きて行かざるを得ない。それが現実である。とすれば、就職口にしても、中国語を習っておくことはこれから必要となるが、残念ながら、中国への留学はほとんどいないのが現状である。どうも女子大生には、欧米が人気で中国は人気がない。女子大生にはまだ日本の現実と将来がリアルら把握できていないということだろうが、それ以上に、好悪のレベルで、中国は好に入っていないということだ。このことが問題だ。

 別に好きになれというわけではないが、少なくとも好奇心というレベルで、それなりに興味を抱く対象としては中国は申し分ない。むしろ、隣にこんな不思議でおもしろい国があることを知らないで過ごすのは不幸である。どうせこれから嫌でも中国や中国人とはつきあわざるを得なくなる。たぶん、就職して中国へ出張なんてことは当たり前になってくるだろう。嫌々つきあうより、好奇心を発揮して相手を知ろうとする態度でつきあえれば、好きにならなくても嫌いにならないですむはずだ。

 大学側もまだ中国を真剣に学問の対象とする体勢になっていない。これも困ったことである。確かに、哲学・思想・科学技術の発達で中国が優れているというわけではない。が、13億の人口を抱えた巨大国家が、信じられないスピードで欧米化しつつある。日本も欧米化の先輩であるが、日本が克服しあるいは克服出来なかった課題とは違う困難に直面しているように思える。独裁制と民主主義、多民族を抱えるがゆえの民族問題、国内格差、福祉問題、発展途上と環境問題との矛盾もある。この国の将来をどう見通すのかは、日本にとっても必須のテーマであるだろう。

 今NHKのクローズアップ現代で中国特集をやっているが、上海では老人の孤独が問題になっている。孤独死した老人が2年間発見されず多くの中国人に衝撃をあたえた。老人問題を生まない筈の共産主義も親を大切にする儒教の徳目も失われていることに衝撃を受けたのである。そこで、上海の役所がとった行動の一つが、老人とその子供の間に入って、親を面倒見るという契約書を交わすことである。罰があるわけではなさそうだが、この契約書を根拠に、親が子供が最近来てくれないと役所に訴えれば役所が子供に指導する、という仕組みになっているらしい。いかにも役人の国中国らしい。

 一人っ子政策を取り続けた中国の老人問題は日本の比ではないということだ。この問題を中国がどう解決していくのか、少なくとも、日本はまだ解決出来ていないのである。他人事では無いはずだ。

 日本の若者がもっと中国に好奇心を持ち、中国に敏感にならないと、と思う。

春の風大陸からの声聴こゆ