無縁社会2010/02/01 00:55

 今日のNHKの特集でやっていた「無縁社会」はなかなか考えさせる番組であった。今、身元不明として扱われる死者は一年で3万6千人になるという。国はこの身元不明の死者を「行旅死亡人」と呼ぶ。万葉の時代、行き倒れの死者を「行路死人」と呼んだが、今も呼び方は同じなのだ。

 身元引受人がいない孤独な死者を調べると、実は縁がないわけではない。ホームレスの人が路上で行き倒れたというのと違って、それなりに一人暮らしをしていた人たちのことである。親族もいることはいる。ただ、そういう縁と切り離されているというだけである。縁があっても、その縁が機能しないものもいるし、あるいは、拒絶されているひともいる。つまり、無縁というわけではなく、現代の社会では縁というものの力そのものが失われてきたというこであるようだ。

 教会やお寺などの宗教施設はそういう人たちの避難場所でもあったが、むろん、そういう施設が機能している社会ではない。誰も孤独に生きることを望んでいるわけではない。だが、様々な条件で一人で生きざるを得ないという人が増えている社会なのだ。

 こどもが一人で寂しくしていればだれかが声をかける。が大人がそういう状態でも誰も声をかけない。大人はその人の生き方の問題とされてしまう場合が多い。何かにうまくいかなかったとき、たまたま誰にも声をかけられなかったら、こんなものだと思って閉じこもりがちになる。が、そのとき誰かが声をかけてくれれば、そうはならない。その差はほんのわずかであり、そのちょっとした違いが、人を孤独にしたり明るくしたりする。そういうものだと思う。

 わたしたちの社会はそういう、声をかけるようなおせっかいさを無くしてしまった社会である。むろん、積極的に人とつきあい縁を作るべきだと言うのは簡単だ。が、そういう言い方というのは、それが出来なければ生きる資格はないよ、と言っているのと同じになる。秋葉原の無差別殺傷事件は、無縁社会に放り込まれることを極度に恐れた若者の暴走だった。他者を道連れにして死ぬしか、縁を結ぶ方法を見いだせなかったのだ。その背景には、縁を作れない奴は生きる資格はない、という無数の声の圧力があるからだ。

 縁は作るものではない。作られてしまうものだ。とりあえずそれを認めること。それを認めないことに自分のアイデンティティなどを決して求めないこと。腐れ縁も少しは引きずった方がいい。孤独を恐れること。孤独に強いなどと誇らないこと。それは無駄な努力である。だからちょっとした縁があればそれを大事にした方がいい。ただ、それでも人は「行旅死亡人」になる可能性はある。私だってわからない。ただ、そうなっても、それは自分が選んだことじゃない、いつのまにかこうなっちゃった、という開き直りが出来ればいいのではないか。孤独になりたくないが、それを避けられない場合もある。それもまた認めないと。

 それでも、やはり「無縁」は寂しい、というのが結論だ。

                         縁あってこのものたちと冬を越す

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