古事記はやっかいだ2010/01/11 23:55

 昨日今日と短歌時評の原稿書き。ここのところ歌集を読んでいないので、抽象的な問題について書いているのだが、前回は音数律論で、今回は定型論である。 時評という性格には合わないのだが、こういうのもたまにはいいだろう、というのが言い訳。

 実は、今年の4月に、穂村弘と学会のシンポジウムで一緒に、型といったテーマで話をすることになっている。今回書いた定型論は、その準備の文章みたいなものである。穂村弘は、私がいつも引用したり参考にしたりしている歌人であり評論家である。相手は著名で今多忙な人だから、よく学会のシンポジウムを引き受けたくれたと驚いている。

 たぶんこのシンポジウムにはたくさんの歌人が来るかもしれない。私的にはあまり来てもらっては困るのだが、学会としては歓迎だろう。

 大和岩雄『新版古事記成立考』を読み進めているのだが、これがなかなかおもしろい。おもしろいというのは、とにかく、古事記偽書説、もしくは序文偽造説についてのほとんとの賛否の論を網羅しているからで、こういうことにあまり興味をいだいてなかった私としては実におもしろく勉強になった。大和氏は、古事記偽書説の論者だが、自説の批判に対してはとにかくしつこい位に徹底して反論している。その批判の仕方も、それなりに論理的であり、読んでいくうちに、古事記偽書説は一つの説として成立するのではないか、とほとんど洗脳されそうになる。

 偽書でないとしても、偽書説にしても、結局は、どちらも確証がないということがある。だから、古事記をどう読むか、あるいはどう歴史に位置づけるか、という論者の思想が結局はその説に反映するということになる。確証としての資料がないから、どのような説も推論を含み、従って、反論も推論だろうと攻撃すればいいから容易なのである。

 たとえば、大和岩雄は平安初期に多人長氏が、私的に伝えていた原古事記を、それなりに改訂して序文をつけて公にしたものだと言っている。古事記の表記についての、たとえばモの使い分けなどから明らかに古い時代のものだという反論には、多人長氏は大歌所を職掌としていたので、そういう知識はあったろうとする。つまり、原古事記というものを想定すれば、古事記は古いものだとする反論には太刀打ちできる、というわけである。

 結局、日本書紀と古事記との二つがほぼ同時に天皇の勅によって作られることの不自然さや、古事記の内容の歌謡物語の多さ、悲劇的な物語、その文学性といった特徴を、どう説明するのか、といったことについて説得力ある説明が出ていないということがあるから、偽書説は出てくる。それらは天皇中心の系図とか私的な歴史を綴ったもの、という従来の説明ではなかなか説明できないのである。

 が、偽書説なら説明できるかというとこれもまた難しい。後宮のための読み物だろうという説もあるが、それにしては、天皇中心の神話や歴史が意図されすぎている。国家の側に引き寄せて解釈すれば、悲劇的な物語や、出雲神話等の説明が弱くなる。そう考えると古事記とはやっかいな書物である。

 あと一週間で、古事記編纂についての文章を書かなきゃならない。これまたやっかいな仕事を引き受けたものだ。

                        小寒や推論ばかりのいちにち

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