「聴くことの力」を読む2010/01/10 01:51

 今日は後援会主催の学校の新年会と二つの学会が重なった。学科長として新年会は毎年出ていたが、今回はパス。二つの学会のうち大きい方に出た。発表者が京都から出てきたM氏で、彼はアジア民族文化学会の代表なので、夏のシンポジウムのことで打ち合わせなどをしなければならなかったので、参加したわけである。

 彼の発表は宴における贈答歌で、文字レベルでの歌がやりとりされていた万葉の時代の宴で、歌垣でみられるような声の即興における歌のやりとりのテクニックが見られることを指摘したものである。オーラルな歌の水準と文字で書かれたり記録されたりする歌の水準とは違うだろうが、一方で、それらは歌の場によっては同時に成立するということもある。特に、万葉ではそういう機会は多かったはずだ。たとえばそれが宴の場である。

 宴では、文字の歌をやりとりしたはずではない。声で歌いそしてその歌に即興に近い形で声で応答したはずだ。ただ、すでに文字で歌が書かれたり記録されたりする時代であり、歌の水準は文字の時代のものである。文字を持たない民族の歌の掛け合いの事例とかさなるような歌のテクニックが見られるが、一方で、やはりちょっと違うというところもある。そういう微妙な違いをどう腑分けしていくかが課題であるとのK氏の発言があったが、その通りだろう。

 ただ、声の歌が古く、文字で書かれた歌が新しい、という区別の仕方をあまりに自明に述べているところが、気になった。間違ってはいないが、歌の大事な問題、というより、言葉の大事な問題が見えなくなってしまうという危惧を感じる。

 文字で書かれたものの方が新しいし表現として価値がある、という近代的思考を批判したのが柳田である。一方、この柳田的批判に対し、逆に文字の側からオーラルな表現を価値化するものだという逆批判もあるが、声対文字という対立軸ではない、ことばの問題を照らし出す形で、たとえば今日のM氏の発表があってもいいのではないかと聞きながら思った。 

 鷲田清一 『「聴く」ことの力』読了。聴くことは、自分のアイデンティティを損なう客を迎える行為であり、同時に自分が迎えられる行為でもある、という論理を一貫させるこの本は、まさに、コミュニケーションというものの、不全を前提にして成り立つコミュニケートの可能性を開示している。聴くことは徹底した受け身でありながら、他者にひらいていくというパラドックス、そこに表現の本質もある、とする。それを具体的に介護やカウンセリングなどの事例として語っていくところがまさに現在的である。

 他者と出会うということ、それは表現するということ、それらは実は、ある決まった目的や関係や場のルールなどから外れてまったく無防備な状態で、さらされる(傷つく)ことだ、と述べる。が、それを受け入れられる(つまり他者との出会いが成立する)というところに、生きていることの意味があるのだと言う。

 いつも漠然と考えていることをこの本はうまく説明してくれる。自分が考えている方向はそれほど間違ってはいないということを教えてくれたという意味で、とても助かった。

 この問題意識を、歌うということとして考えたらどうか。声の歌であろうと文字で書く歌であろうと、無防備で他者にさらされ、それを受け入れていく時に、歌は表現として成立する。その時、声と文字の違いは、たぶん、他者の現れ方の違いだ。

 話が難しくまとめようもないのでこの辺で終わりにしておく。 

他者に触れ触れすぎて痛い冬の日