何となく正月2010/01/05 00:51

 新年あけましておめでとうございます。遅ればせながらの挨拶です。

 正月は三人の幼子を連れたS夫婦が来て、一緒に山小屋で紅白を見て新年を迎える。紅白が終えると近くの村のお寺にいつも除夜の鐘をつきにいって、ついでに初詣というのを恒例にしていたのだが、今年は雪がけっこう降って夜中に車を出すのは危ないというので、除夜の鐘は取りやめた。

 正月はほとんどチビの散歩と、古事記関係の本を読んだりしながら過ごす。ただ雰囲気が仕事モードになっていないので、頭はあまり働かない。2日は別荘地の新年会。これも恒例である。つきあいというものがあるので顔を出す。ここの別荘地は定住者が多く、自治会がある。またオーナー会という組織もあっていろんなイベントをやっている。我が家はもう古顔なのでイベントにはお手伝いで参加することにしている。奥さんは、知り合いが来るというので小淵沢に迎えに行ってしまったので、私一人で参加した。どうもこういう会は苦手である。

 三日は奥さんの友人を送りがてら、韮崎の「韮崎大村美術館」に寄る。女性画家の作品を多く収集している美術館のようだ。著名な作品はないが、景色のいいところで、小さな良い美術館だった。隣は白州温泉施設があり、温泉と美術館という組み合わせも面白い。 
 今日は客もいなくなり、ようやく静かになった。早速本を読み始めたが、能率は上がらない。それでも何とか神野志隆光『漢字テキストとしての古事記』を今日読み終わり、大和岩雄の『新版古事記成立考』を拾い読みなどして過ごした。

 神野志隆光の『漢字テキストとしての古事記』は、面白く読んだのだが、何となく不満の残る本であった。この人の本はいつもそうなのだが。結局、古事記は文字によって書かれ、伝承とか口承の世界とはレベルが違うのだからそういったものと関わらせて論じるべきではない。あくまで文字で書かれた世界として考察されるべきだ、という姿勢で一貫させている。不満はそこにある。つまり、文字が抱え込むはずの非文字もしくは無意識、当然口承の世界等、そういったことへの回路を一切閉ざしたかたくなさがそこに感じられてしまうのだ。

 そこには、論じる手掛かりのないものは存在しないとおなじことだ、というある種の合理主義があるように思えてならない。むろん、文字で書かれることによって例えば口承性といった世界は再発見されるといった論じ方はあるとしても、こういう書かれた文字による表現への還元的思考は、結局、見えるという意味でのことばや意味にこだわることになってしまう。

 つまり、それらは見える世界を論じるしかない。だから、そういった論じ方は、制度論か国家論しか論じられないということになる。文字が抱え込む無意識や口承も文字も等しく抱え込む「ことば」というものへどう開いていくのか、そういう可能性があってこそ、文学と呼ぶところの、ことばの不思議さへと踏み込めるのではないか。同じことばの問題についてこんなに論じながら、ことばが本質的に持つ不思議さには決して至らないだろうという予感だけは明瞭に感じてしまう本なのだ。

                           名も知らぬ神に挨拶初詣