『1Q84』を読む2009/07/14 00:35

 村上春樹『1Q84』読了。なかなか面白かった。村上春樹がオウム事件にどのような衝撃を受けたのか、何となく理解出来た。

 村上ワールドは、何と言っても寓意や喩の豊かさであり卓抜さである。『羊をめぐる冒険』あたりから、得たいの知れぬ闇(例えば権力の根源のようなもの)は、直接的な言及を避けて物語的喩によって暗示されてきた。

 わたしたちがその寓意やシュールな物語展開についていけたのは、そのように語る方法のほうが、私たちの生きる時代の不安や闇のようなものを的確に感じ取れる、と思ったからだ。だから、パラレルワールドは村上春樹の世界にあって、十分にあり、であったのだ。

 別な言い方をすれば、人間の抱え込んだある種の妄想(例えば闇と形容しておくが)は、この世に現れて一つの社会的な実態になる、ことなどありえないことで、例えば戦争やテロなどの深刻な出来事は、歴史の展開を説明する言説の範囲内にあったし、政治や社会の言説の範囲内でそれなりの説明はついた。つまり、それらの言説で説明がつかないものは、たんなる妄想であり、それが実体化したとしても、それは極めて特殊な例外的なものでしかなかった。だから、あり得ない側に本質があるととらえる小説家は、そのあり得ない妄想をあり得るものとして描こうとする。が、ただあり得るものとして描いたら、それは、そのあり得ないことによって伝えたい何かをつまらなくしてしまう。例えば、ファンタジーやエンターテインメントになってしまう。

 それを避ける一つの方法は、あり得ないことの側に本質があるというリアリティを、寓意や喩の力によって語ることだ。村上春樹の方法はそういう方法である。例えば村上龍と村上春樹の違いはそこにある。村上龍は、あり得ないことを直接的にあり得ることとして描く。だから文体から喩を排除する。その結果、エンターテインメント的にとても面白くなるが、あり得ない何かの持つリアリティは失ってしまう。村上春樹はぎりぎりのところで、あり得ない側を描くことを回避することで、ストーリーを曖昧にし、エンターテインメント性を回避する。だから、村上ワールドを読むと、いつも、あり得ない何かが、肝心な部分の欠けたジグソーパズルの断片のように私たちの中にばらまかれ、何となくわかるのだが像は結ばない、ということになるのである。

 ところが、こういう村上春樹の方法は、オウム真理教の登場によって、無効になってしまったらしい。オウムのやったことは、あり得ない何か、つまり闇のようなものを、ある意味、例外ではなく特殊ななにかではなく、この世に実体化してしまったのである。作家がいままで喩で語っていた世界を、直接に叙述してしまったのだ。しかも言語などというまどろっこしい虚構によってではなく、生きている人間の存在そのものを使って。

 村上春樹がそのように受け取ったとしたら(たぶんそのように受け取ったにちがいないのだが)、もう村上春樹の方法にリアリティは失われる。これは小説家にとっての危機である。『アンダーグランド』で、オウムの被害者の聞き書きを本にしたのは、そのような危機を乗り越えるためであったろう。

 さて、あり得ない何かが、あり得るものとしてこの世に実体化されてしまった、そういう状況で、やはりあり得ない側に本質があるというリアリティをどう描くのか、その答えがこの『1Q84』である。

 この本の戦略は二つある。一つは、パラレルワールドを交錯させることである。もう喩は成立しないのだとしたら、あり得ない側とあり得る側の二つの世界は、絡まり合っている同次元の世界として描くしかない。もう一つは、あり得ないと思われる側の本質をやはり謎として描くこと、そして、謎解きに暴かれるものは暴くこと。その結果、教組とリトルピープルを分離し、リトルピープルの側をあり得ない側として保存し、教組をこの世の側に描いた。が、すでに喩はその効力を失っているから、リトルピープルはあり得ない側の闇を暗示し得ない。この小説が、何となく以前よりつまらないという評価を受けるとしたらそこに原因がある。

 それでは何が面白かったのか。喩の暗示力が無くなった分、エンターテインメント性が高まった。天吾と青豆の二人の愛のストーリーは、最後どうなるのかという興味で読者をひっぱっていく。こういう展開は今まであまりなかったものだ。これは典型的な恋愛小説、もしくはハードボイルドの手法である。が、そのことによって、青豆の孤独や愛がより分かりやすく伝わってきた。

 あり得ない何かがこの世に、例えばリトルピープルのように、直接登場してしまった。これが村上春樹がオウム事件から受け取ったメッセージである。嘘を通して真実を語るのが小説である、と村上はイスラエルでの講演で語ったが、オウムの事件が示したのは、この世に起こった真実は、嘘であるのか?、あるいは、この世に起こった嘘は真実なのか?ということである。『1Q84』にいつものような村上的曖昧さや暗示があるとすれば、まさに、以上の問いに答えられない、ということの問題であるように思われる。

  夏の夜のほんとうの嘘を読み継ぐ

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://okanokabe.asablo.jp/blog/2009/07/14/4433749/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。