何とか書き上げる2009/05/08 23:23

 昨夜(7日)ようやく書きかけの原稿を脱稿。連休をはさんで何とか50枚書き上げた。午前中速達で送る。7日に教育会館に予約をとる。9日のアジア民族文化学会が、新型インフルエンザで会場が使えなくなった場合の保険である。4万近くの出費。保険代としては安くはないが、万が一使えなくなったら、この間準備してきたことが全部だめになる。最悪の可能性は少ないとはいえ、万全を期したい。とりあえずこの程度の金で解決出来るならと決断。

 今日、状況を判断すると、明日は大丈夫そうである。とすれば昨日予約をしなくてもよかった、ということになるが、それは今日のことであって、昨日は昨日で危ういと判断したのだ。連休で外国から帰国した人の感染の疑いが連日報道されている。一日早い判断であったが、昨日予約をしないとだめだと言われていたので、仕方がなかった。予約金はキャンセルしても戻ってこない。費用は学会費ではなく、会員からのカンパを募ることにした。

 書き上げた原稿のテーマは『先祖の話』を読むである。今何故『先祖の話』なのか、ということから論を書き進める。

 柳田が説く祖霊信仰は、どちらかと言うとアニミズムに近い信仰である。古代的と言ってもよい。柳田は家という制度の問題としても考えているが、必ずしも家が明確な制度になっていなくても、共同体の始祖のようなものとしての信仰まで含めれば、それこそ縄文まで遡れるだろう。

 その古代的な信仰を、近代日本において、日本人のアイデンティティになり得る宗教意識として捉えようとした。つまり、仏教やキリスト教といった世界宗教に対抗しようとしたのである。その意味では国学の思考とよく似ている。

 が、祖霊信仰はそれ自体都市の信仰ではなく、村のローカルな信仰形態である。それを世界宗教に対抗し得る普遍的なものになしえるのか。実は、同じ事を平田篤胤が試みていて、日本の神話世界を、それこそ世界性を付与させるためにトンデモ本的な世界に作り変えた。さすがに、柳田はそこまで暴走しない。むしろ、祖霊信仰がいかに平和的で、子孫と霊魂とがいかに愛情や思慕と言った関係の中に包まれているかを力説する。そのようなローカルな信仰世界の側にこそ、公的な世界(世界性の側)が近づくべきなのだという信念がある。

 それは、戦死者の魂をめぐる問題でも同じである。近代以降の戦死者は国家による死者であり、基本的には家々でその魂を慰霊するのは限界がある。だから、国家が慰霊せざるを得ない面を持つ。だが、実際はどこの家でも身内の戦死者を祀っているのである。ところが、ある地域では、戦死者は一人墓であって、先祖代々の墓には入れないというところもある。家々で祀ってはいるが、やはり通常の死者の祭祀とは区別されているケースがある。

 つまり、日本では、戦死者の魂をめぐっては、国家という公の祭祀と、家々の私的な祭祀とそれぞれ二重に祀られているのである。つまり、アニミズム的な要素の祭祀と、近代国家による祭祀とに分裂していて、その中間がない。中間とは、例えばキリスト教や仏教といってもよい。古代と近代をつなぐ中間という言い方をしてもよい。

 古代というローカル性と、近代国家の世界性とがいきなり対峙してしまう、というのが、どうも日本の宗教をめぐる問題である。これは宗教だけでなく、文化、思想の問題としても言えるだろう。

 靖国神社を批判する論は、戦争責任のある国家の公的な祭祀を拒否し、家々の私的な祭祀において祀られるべきだと主張する。その主張はわからないではないが、やはり公的な祭祀をまったく拒絶は出来ない。現代の私たちの生活において公的な世界を拒否出来ないようにである。むしろ、今私たちは公的な世界をどう作っていくのかが問われている。

 柳田は徹底してローカルな側に公的な世界があるのだと語る。それが理想論だとしても、公的な世界ををどう語るのか分からないでわたしたちにとっては充分に参考になるのではないか。

 以上が、この間書いてきた私の論のだいたいの趣旨である。
 
寂しくて残花をさがす人がいる