『仏果を得ず』を読む2008/09/17 00:38

 今日は会議が二つ。ようやくいつもの仕事が始まった。やれやれである。昨日のテレビ(ハイビジョン)「なんだこりゃ俳句」はなかなか面白く最後まで見てしまった。最高得点の俳句は高橋源一郎が選んだのは西東三鬼の「露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す」である。これにはうなった。神戸に住んでいた西東三鬼が隣に住んでいたロシア人の行動を窓から見ていたらしい、という解説もあったが、露人ワシコフの狂気がよく伝わってくる。あと「戦争が廊下の奥に立ってゐた」という戦時中の反戦俳句も高得点だったが、なんだこりゃとまではいかないまっとうな俳句だ。

 俳句は短い言葉の組み合わせの妙でいくらでも不思議な世界を作れる。そこが面白い。いかに常識にとらわれないかが大事だと金子兜太が語っていたが、それが難しい。私も下手な俳句を作るが、常識を超えるだけではだめで、超えて何を見るのか、ということが結局は問われる。遊んでしまえば常識は何時でも越えられようが、遊びの向こうに人を共感させる何かが無ければ常識を越える意味がない。「なんだこりゃ俳句」も、ただ何だかわからなくて面白いだけじゃだめだ、ということだ。勉強になった番組である。

 三浦しをん『仏果を得ず』読了。去年の作品だから最近のものだ。文楽で義太夫節を語る若者が主人公。いろいろ悩みながら芸にのめり込んで成長していく物語だが、これもなかなか読ませる。面白いと思ったのは、三浦しをんが小説を書いていくときの呼吸のようなものが、文楽の劇の登場人物になりきった語ろうとする主人公の呼吸と、重なって描写されているように思えてしまうところだ。

 つまり、この小説には、三浦しをんがどんな風に小説という絵空事にのめり込んでその登場人物になりきるのか、といった、方法論が描かれている、というようにも読めるのである。そう読むとなかなか面白い。若い主人公は登場人物を語る時に、どうやったらその人物に共感できるか必死に考える。本当は、作者は、芸というのはそういう理屈を超えてしまうものだということを説きながらも、主人公を通して共感の方法を詳しく語らざるを得ない。が、それを語ることは、同時に作り物としての小説の主人公にどう共感していくかという作者三浦しをんの共感の方法を語ることでもあるのだ。

 そこに、作者三浦しをんの、あるべき物語の人間像といったものが出揃う。やはり、どこか情けなくてじたばたして生きている人物像が揃う。ところで、芸をきわめることは、向こう側の世界に取り憑かれること、といった一つの理屈が、現代風な明るいキャラクターの若者によって実に爽やかに演じられる。この不思議な取り合わせもまた面白いところだ。情念の世界からもっとも縁遠い時代、あるいは雰囲気を生きている若者が、すっと文楽が描く日本人の情念の世界をわかってしまう。そんなことがあるものか、と思わせないのは、文章の力量だろう。

 明日は、大学基準協会主催の説明会に行かなければならない。疲れる一日になりそうだ。

                  虫たちよ鳴いてばかりじゃ分からない