「建立」ということば2008/05/05 01:04

 3日は学会のシンポジウム。「仏教と神話」というテーマでの発表と討論であった。「霊性」というのが大きなテーマではあったが、このテーマはなかなか論じにくい。というのも、近代的な意味性をもってしまっている概念だからで、つまり、西欧的な一神教哲学の限界を乗り越える期待が与えられている。

 日本で使われたのは中世からだというのがO氏のとらえ方で、当然、中世での霊性というのは、われわれが使うのとは違う。だから中世の概念として限定すべきだという。確かに古代まで遡って「霊性」をあてはめれば近代的な意味において使いがちである。

 古代ではかつて「呪性」という概念がよく使われたし現在でも使われる。それでもこの学会が「霊性」にこだわるのは、超越性において呪性では役不足だからであろう。律令国家や王権による神話作りや儀礼を貫く精神には、確かにアニミズム的なベタな呪性があるだろうが、それだけではなく、そこには人間や神を抽象的にとらえる神秘的な思想とも言うべき観念があるはずだ、ということだ。

 折口信夫はあると考えて敗戦後、日本の自然宗教的な神観念における「霊性」をキリスト教に負けない普遍性にしようとした。

 たぶんこの「霊性」という概念には、古代の問題と古代に何かを期待するわれわれの問題とが溶け合っていて、O氏はそこに危惧を感じて中世に限定するべきだと言ったのだろう。

 ただ、一方でO氏がもっと時代を超えて広げて使ってもいいのではと言う「建立」という概念については、今度はO氏が同じ轍を踏んでいる。確かにこの「建立」は面白いことばで寺院の建立から、曼荼羅の建立、和歌の建立といった使われ方をしていてO氏の言うように、可能性を持つ操作概念として現代の思想タームに取り入れたいという期待はわからないではない。

 寺院も和歌も「建立」というのは、何かを作り上げていくプロセスがその概念の価値になっているということであるらしい。むろん、中世という歴史のなかでの限定的な使われ方であったであろう。が、そうであったとしても、ことばや概念は時代を超えうるはずだから、その超えうる何かを考えるのは面白いかも知れない。

 「霊性」より「建立」というタームに対する共感の声が多かったのは、「建立」が、方法的な概念でしかも最初からかなり抽象性を強いられた使われ方をしているからだろう。O氏に言わせれば、中世の僧は「霊性」を物質のようなものとして考えていたというから、「霊性」はそれほど抽象化されていなかったのだ。

 「思ふ」という心情語もまたプロセスに価値を置いたことばだ。日本語にはこういう、そのことばが生成されるまでのプロセスに価値を置くことばが多いということではないか。つまり、あることばに対して、辞書的な意味をただ想起して受け止める、というのとは違う受け止め方をしているということだ。「あはれ」もそういうことばで、こころを動かすそのプロセスに価値があるので、表にあられる表面的な意味にはそれほどの価値はない。

 なかなか面白いシンポジウムであったと思う。

 今日(4日)は学会の合評会だったが欠席した。奥さんの体調が悪く、私が頑張って引っ越しの準備を今日しなくてはとてもじゃないが間に合わない。だが、今度は私の体調がおかしくなった。いずれにせよ合評会は行けなかった。熱はでなかったが、疲れが出たのか、日中はほとんど横になっていた。夕方何とか元気になり、チビの散歩。

 電話局に引っ越しの通知をする。引っ越し先の番号が決まる。やたらに5の多い番号で覚えやすい。引っ越し先は東京都下なのに、電話番号は頭に03がつく。03の範囲は、23区よりもやや広いのだということがわかった。

        犬もたじろぐ夏めく草の勢い

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