宮澤賢治と歌の力2008/04/20 23:50

 相変わらず引っ越しの準備である。横田基地の隣にあるジョイフル本田に照明器具を見に行き、四つの部屋の照明器具を買った。このジョイフル本田、ほんとに広い。見てあるくだけで疲れてしまった。

 引っ越し先のマンションに照明器具を運んで、ついでに近所を散歩する。今回はチビも一緒である。近所の野川沿いの公園にチビの散歩初デビューといったところ。天気が回復したせいか、たくさんの犬たちが散歩している。今住んでいるところも、川があって田んぼが多くて散歩にはよかったが、今度のところもとても良い。もっともだからここに越すことにしたのだが。

 部屋はまだ何もない。明日からリフォーム業者が入る予定だ。明日、引っ越し業者が段ボールを我が家に送ってくる予定。引っ越し当日にその段ボールに本を詰めておくためだ。たぶん2百箱にはなるだろう。それを私ひとりでやるということらしい。いつの間にかそういうことになっていた。金を安くあげるためらしい。業者が本を詰めるというコースもある。それだとかなり割高になるという。私の労力だって金に換算すると馬鹿にはならないのだが、家計ではたいした金額ではないらしい。やれやれである。

 夜、谷川雁の物語論を読む。宮澤賢治の「かしはばやしの夜」について書かれた文章を読んでみた。この童話は宮沢賢治版「真夏の夜の夢」といったところだが、面白いのは、森の中で歌合戦があるというところ。歌垣研究者の私としては、見過ごせない童話である。

 谷川雁はどこまでも文学として読み込もうとしている。作者の思想や主人公の置かれた生活などをきちんと押さえた上で、精緻に分析をしていく。こまかな分析で教えられるところが多いが、この作品への全体の見方としては、途中まで読んだ感想として私はあまり惹かれなかった。

 その原因を考えながら読んでいたが、谷川雁は、基本的に、異界という幻想にあまり興味を持っていないということではないかと思った。宗教が文学を支配してはいけない、と最初に宣言し、宮沢賢治はそうではないと言う。

 つまり、吉本隆明の個幻想と共同幻想という言い方で言えば、谷川雁は徹底的に個幻想の人で、共同幻想というものにあまり惹かれない人なのだ。が、それなら何故晩年、童話のような物語にあれほど思い入れたのだろうか。その理由はよくわからないが、少なくとも、個幻想を飛び越える何かを政治思想ではなく、文学の童話的物語世界に見たのは確かだと思う。

 「かしはばやしの夜」で、森に入り込み、柏の樹の精霊と歌を掛け合う清作という主人公を、谷川雁は、兵隊帰りの貧しい農民として描く。なかなか異界の側のルールになじもうとしない清作は、宮澤賢治の童話の主人公としては、ちょっと異色かも知れない。

 私はもっと単純に、この世の清作と異界のかしはの樹の精霊との交流という視点で読んでいた。谷川雁のように読めばもっと複雑に読めそうだ。が、単純に読んでもいいのではないか、という気もする。この物語の主人公はあくまでも歌である。歌は、この世と異界をつなぐ不思議な力を持っている。その歌の力を描いたのだ、という読みでもいいような気がするのである。

           亀鳴くや樹々は笑ひて歌ひ出す