明日から中国2008/03/23 11:28

 明日から中国である。湖南省と貴州省の境にある鳳凰県都を拠点に、近くの苗族の村に調査に入る。鳳凰県都は鳳凰古城とも呼ばれ、観光名所になっている。近くの王村という村は映画「芙蓉鎮」の舞台になったところで、映画の主人公が最後に米豆腐料理屋をひらくが、その米豆腐料理で有名なところでもある。

 街の中心に陀江という川が流れていて、川の跳岩と呼ぶ橋がユニークである。飛び石が並んでいるだけの橋で、人々はその石の上を慎重に歩いて渡る。足を踏み外せば川に落ちてしまう。川が増水すればすぐに水の下に沈んでしまう。つまり橋ではなく、橋の土台の上を歩くというようになっている。これは、増水する度に橋が流れてしまうために、橋を造らず土台だけにしておくという知恵である。清の時代に作られたという。また、漢族が苗族を隔離しようとして作った南方長城が有名である。長さ180キロに及ぶという。

 明日、成田から広州、広州から銅仁まで飛行機で、銅仁で一泊し、そこから車で鳳凰県まで向かう。日本に帰ってくるのは30日である。

 歌垣の取材が目的であるが、その他にも、シャーマンの取材、神話なども出来れば取材したい。今回は奈良県の万葉古代学研究所の科研の調査であるが、一昨年K氏が調査した場所であり、いきなり入っての調査でもないので、準備も出来ていて、それなりに期待はできるだろうと思っている。

 今、中国はチベット問題で騒がしいが、今回行くところはたぶん影響はないであろう。むしろ、雲南の方がいろいろと厳しいのかもしれない。

 中国国内の作家達が中国政府の対応を批判する声明を出したという。武力弾圧をしないこと、情報操作をせず情報の公開を促すという趣旨でもっともなことだ。今のようなかつての独裁国家や社会主義国家のような権力の用い方をすれば、すぐに破綻することは歴史が証明している。それこそいつかきた道である。それがわかっていてもで出来ないのは、権力の当事者は、今ある制度に欠陥があろうともしがみつくしかないからである。

 情報の公開も武力弾圧の回避も、ある意味では国家の権力を縮小していくことである。逆に言えば、権力の強大化とは、情報の独占であり武力の強大化である。国家権力の縮小は、その縮小にとって代わる民の公共的な力が必要とされる。つまり、民の方が、暴力や、情報操作や、私利私欲に走れば、国家権力を縮小する理由を失う。だから、国家の側は、民の未成熟を理由に、権力を強化する。

 毛沢東時代のチベット侵略は中国の負の遺産だが、中国自体が国家の力を縮小し、民の力を強めていけば、チベットの人々の民としての公共的な力が強まり、自由をもとてめ独立する理由をそれほど持たなくなるだろう。そうなれば経済的な恩恵も当然チベット人に行き渡るはずだ。中国が進むべき道はそっちであって、決して国家権力をふりかざして弾圧することの方ではない。

 本来社会主義とは国家の権力を徐々に縮小していく思想のはずである。資本主義は民の私利私欲に満ちているからそれを抑える国家権力が必要となる。だが、平等な社会は民の私利私欲でなく人々がみんなのために、つまり、一人は万民のため、万民は一人のために生きるから、権力は無くなるはず、というのが社会主義の理想であった。

 現実はそうはうまくいかないというのは20世紀の教訓だが、その上手くいかないところを目に見えるように体現しているのが今の中国である。だから、世界中から非難されている。その上手くいかないところがあまりに分かりやすいからである。

 社会主義と資本主義の接合は歴史の実験なのか、それとも、13億人を餓えさせずに統治する権力の維持のためのシステムなのか、何とも言えないが、確かなことは、ただ権力維持のためのやり方はおそかれ早かれ破綻するということである。民の力による公共性をどう作り、国家の力をどう縮小していくか、その目標があってこそ、現段階の国家権力の維持は肯定されるべきだ。これは中国だけでなく、日本の問題でもあろう。

 日本の国家財政はすでに破綻している。医療も年金も社会保障もそれを支える財政基盤が弱体化している。国家という抽象的な権力の維持のために膨大な国債を発行し借金を抱えたからである。国家財政という権力によって社会保障を回復するのは限界がある。とすれば、民の公共的な力によってそれを補っていくしかない。というより民が主体になるべきである。それは国家の縮小を意味する。日本もまたそういう目標を持たなければならないということである。

         境内の白木蓮が光りけり