ドストエフスキー2008/03/11 23:11

 風邪を引いてしまった。数時前から喉が腫れて、やばいなと思っていたが、昨日から身体がだるくなり本格的に風邪の症状となった。通夜で寒風にあたったのが原因か、あるいはここのところボーッとしているので身体が油断したか、まあ、年に何回かは風邪を引くので、今年になって最初の風邪ということだ。

 忙しいのだがボーッと過ごしているのは、締め切りの原稿がないのと授業がないせいだ。谷川雁が作ったとかいう「十代」という雑誌があって、そこから宮沢賢治の童話について何か書いて欲しいと依頼が来た。短いので引き受けたが、これが今年の最初の依頼原稿で、これで終わってくれるとありがたい。

 数日前から新訳の『カラマーゾフの兄弟』を読み始めた。この新訳は10万部売れたという。何でドストエフスキーが10万部売れるのか不思議である。M氏の『古事記』が10万部売れたときも不思議だったが、人々の知への欲求というのは、あなどりがたくその傾向を掴むことは難しいということだ。

 山形からM氏とA氏と一緒に帰ったが、今度芸術祭何とか賞という賞をもらったA氏が、M氏をうらやんで一度ベストセラーの本を出してみたいと語っていたが、同感である。私の本で増刷したのは参考書だけである。

 まだ最初のほうしか読んでいないが、若いときの読み方よりも落ち着いて読める気がする。若いときはドストエフスキーは夢中になって読んだ。読み出したらとまらなくなり、読み終わるまで3日間、寝る間を惜しんで読んだという記憶がある。さすがに今その気力も夢中になるということもない。読んでみて、ドストエフスキーの主人公は、今の心理学的見知からみれば、みんなどこか精神的疾患を抱えている者ばかりであるということがよくわかった。

 過剰なほどの神経の高ぶりを皆共通して持っていて、実によくしゃべる。しゃべると止まらなくなる。自分か相手かを傷つけないうちは話を止めることがない。しゃべり終わると激しく後悔する。こういう人物がたくさん登場する。背景には、ロシアの農奴の悲惨な現実と、観念的な貴族や知識階級との落差がある。この落差こそが、このような精神的疾患を生み出していると言えるだろう。個人の歴史で言えば、このような落差は、青年期の特徴でもあろう。観念的で理想的で現実は貧しい。私がそうだった。だから若いときに夢中になって読んだのだ。

 今は、貧しくはなくなった。観念的と言われることもあるがそれほど観念的でもない。だから、ドストエフスキーをもう夢中になって読むこともないということか。それはそれで寂しいことだが。

 今日は会議で出校。明日はB日程の入試である。
 
          春泥や此岸彼岸がわからない