山形から帰る2008/03/05 23:40

 今日、山形芸術工科大学から戻る。M氏とA氏と一緒に山形で新幹線に乗りいろいろと話をしながらの帰りであった。お二人はかなり忙しそうである。M氏はこれから大学で会議。A氏は国交省で会議、その後会津若松に行くという。特にA氏は有名人だから信じられないくらい多忙である。私など忙しいなどと愚痴るのが恥ずかしいくらいである。

 それにしても、山形芸工大は山形市が一望に見下ろせる丘にあって、大学の宿舎は24時間入れる温泉がついている。うらやましい限りの大学である。そこで、「遠野物語」の研究会が、4日と5日にかけてあった。中心的なメンバーは、A氏と京大ユング派系の臨床心理学を専門とする心理学者達である。

 4日、午後の会議を休んで山形にやつてきて会場に送れて入って行ったら、吉本隆明の共同幻想論の話になっていて、A氏が、私に吉本世代なのだから何かしゃべれというので、一応いろいろとしゃっべったら、どうやらしゃべりすぎたらしく、ひんしゅくをかってしまったようだ。今はやりのKYだったようである。

 心理学者のK氏の「遠野物語」の分析はなかなか面白かった。この物語には境界しかない、異界は書かれていないと述べ、そう言われれば異界の奥深くに入り込んではいないなあと納得。境界では一瞬の出会いが起こる。その一瞬の出会いには死がある、という展開はなるほど心理学者らしい分析だと感心した。

 私は学生に毎年「遠野物語」を演習で読ませているのだが、ある学生がやはり遠野には境界がたくさんある、境界の中で生きているというような発表をしたことがある。この学生もなかなか面白かった。

 それにしても、この研究会に来ていた臨床心理学系の心理学者はみな変わった人達であった。本人達もそれを自覚していて、精神的におかしな人とつきあっているとやはりこっちもおかしくなるのだという。が、重要なことは決して発症してはならないということだ、と語っていた。むろん、ここでいうおかしさは、そうい意味ではなくて、おもろい人達だということ。夏に合宿をやろうということで話がまとまり、研究会が終わった。

 やはり「遠野物語」の読み方というのは、異界や境界という、ある意味ではすでに自明になってしまった固定の概念をどう解体するか、であろう。その入り口は見えてきたというのがA氏の判断で、この会は続くことになった。とりあえず、私も付き合ってみようと次も出ると返事をしておいた。
 
        異人らが去って寂しや山笑ふ

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